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わがまま

驚いた。
気づいたらものすごいスピードでマットが私に迫ってきた。
慌てて手を出して、何とか激突を防ぐ。
そして気づく。迫っていったのは私の方であると。

周りの音が何も聞こえない。
いや、聞こえてはいるのだが、何と言っているのか理解できない。
全ての音が、大きな幹線道路の横道を歩いているような騒音に聞こえる。

私は何をしているのか……ええと、そう、試合だ。ボクシングの。
今は試合中、ということは私はダウンしている?
さっさと立ち上がらなければ。

折れ曲がった足に力を入れる。
しかし、体は持ち上がらない。
ついさっきまで私の体を立派に支えていた足が、まるで役に立たない。
自分の足がこんなに弱々しく、そして自分の身体がこんなに重く感じるのは初めてだった。
カウントは始まっている。
焦る気持ちとは裏腹に体はまるで動こうとしない。

こうも体にダメージが溜まったのは初めてだった。
相変わらず、聞こえる音はグワングワンと頭の中で響いているし、手も足も動かないし、息をするのも苦しい。
これはもう無理、そう感じざるを得ない。
諦めたくなくても、無理なものは無理であった。
ただの元ヤンキーが急に始めて通用するスポーツではなかった。
これで人生2度目の敗北と言うことになるが、まだ先はある。これから上手くなっていけばいい。
めちゃくちゃ悔しいし、負けたくないけど……今回は無理だ。

「立て!」

突然、耳の中を鋭く貫くような声が聞こえた。
色んな音が飛び交う頭の中で、その声は何故か私の耳によく届いた。
どこかで聞いたことがある声だった。

「立つんだ! 才加!」

誰の声なのか考えた。
残り少ない酸素を使ってしまったかもしれない。
名前より先に顔がパッと浮かんだ。
そして、それを追うように名前も浮かぶ。
この声は前田敦子……あっちゃんの声だ。
姿は見えないが、間違いない。
そうか……あの子は本当に強かったのか。
5人の不良に囲まれたのを突破するとは大したもんだ。本当に良かった。
しかし悪いね……そんな危険を冒してまで出させてもらった試合、勝てそうにない。ごめん。

「まだ、力残ってるだろ! 立てる!」

変わらずあっちゃんから声は飛ぶ。
無理言わないで欲しかった。
こっちの体の状況を考えてくれ。

「ここで負けていいのか!? ボクシングで自分を変えるんだろ!」

確かにそう、そう言った。
でも勝つことだけがすべてじゃない。
負けても意味はあると思うし、これから勝てばいい。

更新日:2011-11-12 03:32:36

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