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挿絵 478*356

「丸井隼人といいます。ベランダで転んだのを見たものですから……」
 丸井は女性の後を追いながら自己紹介をした。
「わたし、となりの秋元晴子です。地域の民生委員をしてます」
 俊介はベランダへうずくまっていた。晴子は手慣れた様子で俊介にアカンベェをさせて瞼の色を確かめ、手首の脈を調べた。
「心配ないと思うよ。先生、どこが痛いの。頭を打ったのかなあ、目の前がぼんやりしてない?」
「足をこねたらしい。捻挫だろう。ぼつぼつ這っていけば、下におりれる」
 俊介は丸井の手を借りながら、やっと体の向きをかえた。
「済みません。通りすがりなのにご迷惑をかけてしまって」
 丸井隼人の顔を見て、俊介は言った。
「あのう、救急車を呼びましょうか」
 てきぱきと対応する秋元晴子に圧倒されて、丸井は遠慮がちにたずねた。
「この程度で救急車を呼んでたら、救急車もたまったものじゃないですよ。桜タクシーを呼んで病院へ行きましょう。川向こうの桜並木に看板が見えるでしょう。ハヨイク。ほら、ここからも見えますよ。八四一九。ケイタイ持ってますよね。すぐ電話して下さい。お願いします」
 秋元晴子は、にべもなく救急車の申し出を却下してタクシーの手配を丸井に頼んだ。
「後ろへ転んだから背骨や尾てい骨にひびが入ってるかも知れませんよ。無理に動かさない方がいいと思います」丸井は桜タクシーの番号を押しながら、また口をはさんだ。
「痛いのは足だけだ。尻の骨なんかどうもない」
 俊介は、自由にならない足が腹立たしい。
「そんな強がりを言ってないで、ゆっくり降りましょう。丸井さんがタクシーを呼んでくれたから、とにかく病院へ行きましょう」
 秋元晴子は俊介をなだめて言った。丸井が側から腕をまわして俊介をかかえ、晴子は俊介の痛がっている足をかばい階下へおりた。
「丸井さんが居てくれたので助かりました。ありがとう」
 改めて俊介と晴子に礼を言われ丸井隼人は恐縮してしまった。もとはと言えば自分の落としたカメラケースが原因なのだから。

          ◇    ◇    ◇

「おやじさん、家に居てばかりだと運動不足で体のためになりませんよ。ほら、安い大根一本買うんだって、少し遠いスーパーへ出かけるのは健康にいいってよく言うじゃないですか」
 丸井隼人はコンビニの弁当をきれいに平らげ、慣れた手付きでお茶を入れ俊介にもすすめた。
「そうだなあ。外出は図書館へ行く位だ。途中にポストもあるし、不自由はしていない。図書館までは適当な散歩コースなんだ。家の中でも掃除機をかけたり庭の草むしりをしたり、運動のつもりでやってるよ。二階へも上がって、気分転換に景色をながめとる」
 桜の季節に隼人の落としたカメラケースに気を取られベランダから俊介が乗り出した時の事を思い出し、二人は顔を見合わせて笑った。あのひょんな出会いがあって西川俊介と丸井隼人は親しくなったのだ。俊介のくじいた足は軽い捻挫だった。隼人は近くに来たついでだからと、たびたび顔をみせ見舞いに寄ってくれた。元気になった今でも、週に一度か十日に一度は俊介を訪ねて昼食を食べながら雑談する。いつの間にか俊介は隼人が来訪するのを心待ちにするようになっていた。
 普段はパソコンに向かって麻雀や囲碁をする。時には競艇もする。わずかな掛金に望みを託して、レース画面を見ながら熱狂する。それはそれで結構面白い。けれどやっぱり、生身の人間を相手にするのとは違う。隼人と知り合いになってから、何かしら心が和む。隼人を息子のように思えるからだろうか。他人を気遣うという、ともすれば忘れがちな柔らかい感情が胸に広がっている。久しぶりに味わうやさしい気持ちだった。
 俊介は小学校の教師をしていた。彼が新任教師になったのは昭和三十年、戦争でぺしゃんこになった人々の心に復興の気運が高まりはじめた時代である。旭川の堤防も整備され、明るい明日を願って住民が桜の植樹をした頃である。
“産めよ増やせよ”の風潮で、学校は子供達であふれていた。上品で高級な雰囲気は片隅に押しやられていたが、たくましい活動力があった。一クラス四十人という鮨詰め状態のクラスは、各学年とも、い組から、ろ、は、に、ほ、と組まで六クラスに編成されていた。さすがに、へ組はなかった。『へ』が『屁』を連想させるからだ。

更新日:2011-04-20 11:27:55

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短編小説 『 猫のフーちゃん 』       吉田日出子 著