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第七章:けせるもの ―長月・中旬―
* * *
葡萄の地に散らされたように浮かぶ、純白の萩の花の柄。
これは、奏一郎の所有している着物の中でも、最もお気に入りのものだ。しかし柄が柄なだけに、今の季節にしか身に纏えない。彼にとっては、相当な価値のある着物なのだ。
「……来年はもう、着られないかもしれないな」
小さく呟いて、
「うーん……」
思いっきり腕を伸ばした後、熱せられたアスファルトを冷やすべく、柄杓で冷水を撒く。地面に浮かび上がったのは、仄暗い水たまり。
それを通して空を見る。
空の色は濁って重々しく、雲も黒に近い灰色だ。
水たまりに映る世界は、そんな世界だ。
「……今日はいい天気……なのかなぁ」
滑稽そうにそう呟いた。蝉の鳴く声も最近では少なくなったためか、やけにその声は反響したように感じる。
「直接、空を見ればいいじゃねぇか」
振り返ると、銀色の水筒――『とーすい』が仁王立ちでこちらを見ていた。
「わかってないなぁ、とーすいくんは」
柄杓を片して、水たまりから目を逸らす。
「普段、目にしている風景を違う方法で見ることが、どんなに面白いか」
非難している様子ではないが、どこか憐れみを含んでいる。そんな目をする彼を、とーすいは小馬鹿にしたように笑った。
「旦那の美的感覚が、いまいち俺様にはわからねぇや」
「おや、奇遇だな。僕も、君の美的感覚が理解できないと思っていたところだ」
奏一郎は愉快そうに笑った。
「君を創ったのは僕なのに、どうしてこんなに違うのかな、僕達は」
「さぁな」
「……前から思っていたんだが。君は結構、僕に反抗することが多いよね。僕が怖くないのか?」
「“死ぬ”ことが怖くないからな」
きっぱりと、とーすいは言い放った。店内に入った奏一郎は、勢い良くロッキングチェアに座り込み、目を瞑ってとーすいの言葉に耳を傾ける。
「もし死ぬことを怖れていたなら、俺様は旦那を怖れていただろうな。……俺様をこの世から解放できるのは、旦那……あんただけだから」
とーすいの言葉は更に続く。
「だが、俺様は自分の意志で生まれてきたわけじゃない。だから別に、いつこの世から消えようが、悔いは無い」
「……なるほどねえ。……でも」
饒舌なとーすいに、奏一郎は微笑みかけた。穏やかな波のような笑み。
「誰だって……自分の意志で生まれてきたわけじゃないさ」
その時、水たまりに黒い影が映った。
「すみません」
少し腰の曲がった、背の低い老婦だった。深緑の着物に身を包み、白髪混じりの長い髪の毛を後ろに一つにまとめ、皺だらけの顔からは、垂れた茶の目が覗いている。
奏一郎は珍しく、その存在に目を丸くした。
「……おや、あなたは……」
その人物の名を言いかけた瞬間、奏一郎は口をつぐんだ。
「……いらっしゃいませ。何かお求めですか?」
すると少し言いにくそうに、老婦は尋ねた。
「いえ、あの……誠一郎さんは……いらっしゃいませんか?」
-……“誠一郎”、か。
奏一郎は老婦に微笑んだ。再会するまでの、長いようで短かった時に、想いを巡らせて――。
「……“誠一郎”は、祖父の名ですね。僕は孫の、奏一郎と申します」
* * *
「そうですか……。もう何年も前に亡くなられましたか……」
縁側の傍らに置かれたコップの中の氷が、カランと音を立てた。彼女の表情には、どこか切なさが漂う。
「祖父のお知り合いだったんですね」
「いえ、知り合いというより彼は恩人ですね……。生き方に悩んでいた私を、今の道に導いてくださって」
老婦は『新川 千絵』と名乗った。実際は名乗らなくても、奏一郎は名を知っていたわけだが。
「彼にお世話になってから、田舎の実家に帰って、子供も無事に生まれ、成人して……孫もできて。やっと東京に来る機会ができたので、お礼を言いたかったのですが……遅すぎたようですね」
「……それを聞いて、天国の祖父も喜んでいることでしょう」
徐に、千絵は奏一郎の顔を見つめ顔をくしゃりとさせて微笑んだ。
「……不思議ですねぇ。まだ、ここに誠一郎さんがいるような気がしていたんですよ。まだ、この店があるような……そんな気がして。ここに最後に訪れたのは、本当に遠い昔ですのに」
空を見つめ、ゆっくりと千絵は目を閉じる。
「……不思議な方でした。生きる力を、彼は私に与えてくれた気がします。……ご本人にはお会いできなくても、お孫さんにはお会いできましたし……もう、満足です」
縁側から立ち上がった千絵を、奏一郎が支えた。
「玄関先までお送りしますよ」
「ありがとうございます」
店先に出ると、先ほど濡らした地面は、もう既に干上がっていた。
* * *
葡萄の地に散らされたように浮かぶ、純白の萩の花の柄。
これは、奏一郎の所有している着物の中でも、最もお気に入りのものだ。しかし柄が柄なだけに、今の季節にしか身に纏えない。彼にとっては、相当な価値のある着物なのだ。
「……来年はもう、着られないかもしれないな」
小さく呟いて、
「うーん……」
思いっきり腕を伸ばした後、熱せられたアスファルトを冷やすべく、柄杓で冷水を撒く。地面に浮かび上がったのは、仄暗い水たまり。
それを通して空を見る。
空の色は濁って重々しく、雲も黒に近い灰色だ。
水たまりに映る世界は、そんな世界だ。
「……今日はいい天気……なのかなぁ」
滑稽そうにそう呟いた。蝉の鳴く声も最近では少なくなったためか、やけにその声は反響したように感じる。
「直接、空を見ればいいじゃねぇか」
振り返ると、銀色の水筒――『とーすい』が仁王立ちでこちらを見ていた。
「わかってないなぁ、とーすいくんは」
柄杓を片して、水たまりから目を逸らす。
「普段、目にしている風景を違う方法で見ることが、どんなに面白いか」
非難している様子ではないが、どこか憐れみを含んでいる。そんな目をする彼を、とーすいは小馬鹿にしたように笑った。
「旦那の美的感覚が、いまいち俺様にはわからねぇや」
「おや、奇遇だな。僕も、君の美的感覚が理解できないと思っていたところだ」
奏一郎は愉快そうに笑った。
「君を創ったのは僕なのに、どうしてこんなに違うのかな、僕達は」
「さぁな」
「……前から思っていたんだが。君は結構、僕に反抗することが多いよね。僕が怖くないのか?」
「“死ぬ”ことが怖くないからな」
きっぱりと、とーすいは言い放った。店内に入った奏一郎は、勢い良くロッキングチェアに座り込み、目を瞑ってとーすいの言葉に耳を傾ける。
「もし死ぬことを怖れていたなら、俺様は旦那を怖れていただろうな。……俺様をこの世から解放できるのは、旦那……あんただけだから」
とーすいの言葉は更に続く。
「だが、俺様は自分の意志で生まれてきたわけじゃない。だから別に、いつこの世から消えようが、悔いは無い」
「……なるほどねえ。……でも」
饒舌なとーすいに、奏一郎は微笑みかけた。穏やかな波のような笑み。
「誰だって……自分の意志で生まれてきたわけじゃないさ」
その時、水たまりに黒い影が映った。
「すみません」
少し腰の曲がった、背の低い老婦だった。深緑の着物に身を包み、白髪混じりの長い髪の毛を後ろに一つにまとめ、皺だらけの顔からは、垂れた茶の目が覗いている。
奏一郎は珍しく、その存在に目を丸くした。
「……おや、あなたは……」
その人物の名を言いかけた瞬間、奏一郎は口をつぐんだ。
「……いらっしゃいませ。何かお求めですか?」
すると少し言いにくそうに、老婦は尋ねた。
「いえ、あの……誠一郎さんは……いらっしゃいませんか?」
-……“誠一郎”、か。
奏一郎は老婦に微笑んだ。再会するまでの、長いようで短かった時に、想いを巡らせて――。
「……“誠一郎”は、祖父の名ですね。僕は孫の、奏一郎と申します」
* * *
「そうですか……。もう何年も前に亡くなられましたか……」
縁側の傍らに置かれたコップの中の氷が、カランと音を立てた。彼女の表情には、どこか切なさが漂う。
「祖父のお知り合いだったんですね」
「いえ、知り合いというより彼は恩人ですね……。生き方に悩んでいた私を、今の道に導いてくださって」
老婦は『新川 千絵』と名乗った。実際は名乗らなくても、奏一郎は名を知っていたわけだが。
「彼にお世話になってから、田舎の実家に帰って、子供も無事に生まれ、成人して……孫もできて。やっと東京に来る機会ができたので、お礼を言いたかったのですが……遅すぎたようですね」
「……それを聞いて、天国の祖父も喜んでいることでしょう」
徐に、千絵は奏一郎の顔を見つめ顔をくしゃりとさせて微笑んだ。
「……不思議ですねぇ。まだ、ここに誠一郎さんがいるような気がしていたんですよ。まだ、この店があるような……そんな気がして。ここに最後に訪れたのは、本当に遠い昔ですのに」
空を見つめ、ゆっくりと千絵は目を閉じる。
「……不思議な方でした。生きる力を、彼は私に与えてくれた気がします。……ご本人にはお会いできなくても、お孫さんにはお会いできましたし……もう、満足です」
縁側から立ち上がった千絵を、奏一郎が支えた。
「玄関先までお送りしますよ」
「ありがとうございます」
店先に出ると、先ほど濡らした地面は、もう既に干上がっていた。
更新日:2013-09-06 13:45:33