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第五章:こわすひと ―長月―
小夜子は、窓から灰色の空を見つめる。
「うわ。雨ですよ、奏一郎さん」
長い間、太陽によって熱せられた地面を冷まそうとするかのように、今日は朝から雨が降っていた。
雨が地面に降り立つ音が、さらさらと聞こえてくる。
奏一郎は微笑んで、
「おかげで今朝は涼しいなあ」
と言う。一方の小夜子は、慌ただしく二階への階段を駆け上る。
「どうした?」
「傘が二階に置きっぱなしで……。あと、念のため替えの靴下も用意しないといけないので」
「さよは雨、嫌いなのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
好きなわけでもないけれど。
奏一郎は、どんな天気でも気分を害したりしないのだろう。晴れの日には晴れの日の、雨の日には雨の日の、快適な過ごし方を知っているのかもしれない。
傘を二階から持ってきた小夜子はローファーを履いて、玄関まで見送ってくれる彼に振り返る。
「今日は休み明けのテストなので、お昼時には帰ってこれると思います」
「そうか……。あ、じゃあ鍵を渡しておこう」
懐から鍵を取り出すと、小夜子に手渡す。受け取った小夜子は、キーケースにそれを入れた。
「奏一郎さん、出かけるんですか?」
「ああ。昼食は作っておくから、それを食べるといい」
「は、はい。なんか……何から何まですいません」
結局、小夜子はこの店に来てから一度しか料理をしていない。それも濃すぎる味付けをしてしまうという大失態を犯してしまった。
こんな、料理だけでなく段ボール箱の片づけまでさせるなんて。申し訳ない上に、何もできない自分が情けない上に恥ずかしい。
ところが、一方の奏一郎はくすくすと笑う。
「こういう時は、『すみません』よりも『ありがとう』の方が嬉しいなぁ」
「え! あ、ありがとうございます!」
「どういたしまして。さ、学校に気をつけて行ってこい」
「は、はい。行ってきます!」
オレンジ色の傘を見送って、奏一郎は玄関の戸を閉めようとした。
「旦那、なに考えてんだ?」
小学生のような声。
とーすいがいつの間にか、仁王立ちでこちらを睨んでいた。閉じかけていた玄関の戸を、再び開く。妖しげな微笑を浮かべる彼。
「別に……? ただ、面白いことが起きそうだなぁと思っただけだ」
「けっ、よく言うぜ。旦那は嘘つきだな」
とーすいの苦言などお構い無しに、奏一郎は灰色の雨雲を見上げて微笑んでいた。
「旦那の言う『面白いこと』はいつも、誰かが苦しむことに繋がってるじゃねえか」
「……怒ってる?」
とーすいは胸を張る。が、彼は水筒なので張れる胸は無い。
「別に。ただ、旦那のそういう性格に問題があることを、教えてやってるだけだ」
「……性格に、問題……」
奏一郎は失笑した。
「困ったなぁ。僕の唯一“人間らしい”ところが否定されてしまった」
言葉とは裏腹に、それほど困った様子は無い。
「あ、そうそう、とーすいくん? 僕はちょっと散歩に出かけてくるから、お留守番よろしくな?」
「な、おい、旦那!」
番傘を片手に、奏一郎は店を出た。
小豆色の傘を広げた彼は、小夜子が先ほど店先に出しておいた、段ボール箱の山を見て微笑みを浮かべ――どこへやら、去っていく。
* * *
「たーちばーなさんっ」
――……またか。
昼時。
机に弁当を乗せると、隣から響く甲高い声。顔を上げればやはり……あの女性がいた。
こげ茶の長い髪をくるくると巻いて、スーツを崩して着こなしている。くりくりとした大きな瞳が、こちらを覗いていた。
「えっと……」
名前が思い出せず、橘は眉を顰めた。
「やだなあ、忘れちゃったんですかぁ? 瀬能ですよ、せ・の・う!」
「ああ……、失礼しました」
唇を尖らせながら、瀬能は橘の隣の席に座る。
苗字を聞いて自然、下の名を思い出した。
瀬能 桃だ。今年の四月から同じ部署に配属された、たしか、自分より三つ下の二十四歳。
橘は瀬能が苦手だ。女性特有の高い声が、昔から好きではなかったためだ。それに落ち着きの無い人間自体、そんなに好きではない。だからなるべく関わり合いのないように接してきたのだが、何故か瀬能は自分に執着してくる。
――他の男のところに行けばちやほやされるだろうに、意味がわからない。
張りつけたような彼女の笑みを、なるべく視界に入れないよう努めた。
「先日、この近くで美味しいお鍋の専門店を見つけたんですよ~」
「……はあ、それで?」
弁当の玉子焼きを口に入れる。
――…うん、塩が少し多かったな。
「それでー……橘さんに、今度連れてってもらいたいなーって……」
瀬能の話を遮るかのように、役所の電話が鳴る。急いで玉子焼きを飲み込んだ橘は受話器を取った。
「はい、もしも……」
《きょーやー……?》
自分の名を呼ぶ、惰性的で緩慢な声。橘には聞き覚えがあった。
「……桐谷? 桐谷なのか?」
小夜子は、窓から灰色の空を見つめる。
「うわ。雨ですよ、奏一郎さん」
長い間、太陽によって熱せられた地面を冷まそうとするかのように、今日は朝から雨が降っていた。
雨が地面に降り立つ音が、さらさらと聞こえてくる。
奏一郎は微笑んで、
「おかげで今朝は涼しいなあ」
と言う。一方の小夜子は、慌ただしく二階への階段を駆け上る。
「どうした?」
「傘が二階に置きっぱなしで……。あと、念のため替えの靴下も用意しないといけないので」
「さよは雨、嫌いなのか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」
好きなわけでもないけれど。
奏一郎は、どんな天気でも気分を害したりしないのだろう。晴れの日には晴れの日の、雨の日には雨の日の、快適な過ごし方を知っているのかもしれない。
傘を二階から持ってきた小夜子はローファーを履いて、玄関まで見送ってくれる彼に振り返る。
「今日は休み明けのテストなので、お昼時には帰ってこれると思います」
「そうか……。あ、じゃあ鍵を渡しておこう」
懐から鍵を取り出すと、小夜子に手渡す。受け取った小夜子は、キーケースにそれを入れた。
「奏一郎さん、出かけるんですか?」
「ああ。昼食は作っておくから、それを食べるといい」
「は、はい。なんか……何から何まですいません」
結局、小夜子はこの店に来てから一度しか料理をしていない。それも濃すぎる味付けをしてしまうという大失態を犯してしまった。
こんな、料理だけでなく段ボール箱の片づけまでさせるなんて。申し訳ない上に、何もできない自分が情けない上に恥ずかしい。
ところが、一方の奏一郎はくすくすと笑う。
「こういう時は、『すみません』よりも『ありがとう』の方が嬉しいなぁ」
「え! あ、ありがとうございます!」
「どういたしまして。さ、学校に気をつけて行ってこい」
「は、はい。行ってきます!」
オレンジ色の傘を見送って、奏一郎は玄関の戸を閉めようとした。
「旦那、なに考えてんだ?」
小学生のような声。
とーすいがいつの間にか、仁王立ちでこちらを睨んでいた。閉じかけていた玄関の戸を、再び開く。妖しげな微笑を浮かべる彼。
「別に……? ただ、面白いことが起きそうだなぁと思っただけだ」
「けっ、よく言うぜ。旦那は嘘つきだな」
とーすいの苦言などお構い無しに、奏一郎は灰色の雨雲を見上げて微笑んでいた。
「旦那の言う『面白いこと』はいつも、誰かが苦しむことに繋がってるじゃねえか」
「……怒ってる?」
とーすいは胸を張る。が、彼は水筒なので張れる胸は無い。
「別に。ただ、旦那のそういう性格に問題があることを、教えてやってるだけだ」
「……性格に、問題……」
奏一郎は失笑した。
「困ったなぁ。僕の唯一“人間らしい”ところが否定されてしまった」
言葉とは裏腹に、それほど困った様子は無い。
「あ、そうそう、とーすいくん? 僕はちょっと散歩に出かけてくるから、お留守番よろしくな?」
「な、おい、旦那!」
番傘を片手に、奏一郎は店を出た。
小豆色の傘を広げた彼は、小夜子が先ほど店先に出しておいた、段ボール箱の山を見て微笑みを浮かべ――どこへやら、去っていく。
* * *
「たーちばーなさんっ」
――……またか。
昼時。
机に弁当を乗せると、隣から響く甲高い声。顔を上げればやはり……あの女性がいた。
こげ茶の長い髪をくるくると巻いて、スーツを崩して着こなしている。くりくりとした大きな瞳が、こちらを覗いていた。
「えっと……」
名前が思い出せず、橘は眉を顰めた。
「やだなあ、忘れちゃったんですかぁ? 瀬能ですよ、せ・の・う!」
「ああ……、失礼しました」
唇を尖らせながら、瀬能は橘の隣の席に座る。
苗字を聞いて自然、下の名を思い出した。
瀬能 桃だ。今年の四月から同じ部署に配属された、たしか、自分より三つ下の二十四歳。
橘は瀬能が苦手だ。女性特有の高い声が、昔から好きではなかったためだ。それに落ち着きの無い人間自体、そんなに好きではない。だからなるべく関わり合いのないように接してきたのだが、何故か瀬能は自分に執着してくる。
――他の男のところに行けばちやほやされるだろうに、意味がわからない。
張りつけたような彼女の笑みを、なるべく視界に入れないよう努めた。
「先日、この近くで美味しいお鍋の専門店を見つけたんですよ~」
「……はあ、それで?」
弁当の玉子焼きを口に入れる。
――…うん、塩が少し多かったな。
「それでー……橘さんに、今度連れてってもらいたいなーって……」
瀬能の話を遮るかのように、役所の電話が鳴る。急いで玉子焼きを飲み込んだ橘は受話器を取った。
「はい、もしも……」
《きょーやー……?》
自分の名を呼ぶ、惰性的で緩慢な声。橘には聞き覚えがあった。
「……桐谷? 桐谷なのか?」
更新日:2013-09-04 14:38:18