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* * *
男はその朝、いつもの時間に起床し、いつもの時間に朝食を食べ、いつもの時間に出勤した。同僚といつも通り手短に挨拶を交わし、いつもと同じ机に座った。
そして、今日の仕事は――いつもと同じではなかった。
一つ溜め息を吐き、今日必要な書類を纏めると立ち上がり、職場を後にする。
いつもであれば通らない道を、男は真っ直ぐに歩いていく。暑い、暑い日。空に浮かぶ厚い雲はただゆったりと漂うばかりで、日光から、夏の暑さから守ってくれそうもない。それでも、男はスーツの上着を脱いだり、ネクタイを緩めたりはしない。信条に反するし何より、気を緩めていては、丸め込まれてしまう――。今日会う予定の男は、そういう男だからだ。
しばらくして、男は目的地に到着した。
腕時計を見れば、予定の時間の一分前――七時五十九分だ。彼はこの後も、予定通りになるように願った。
――……それにしても、毎度思うことだが。古びれたというか、奇妙奇天烈というか、不気味且つ意味不明な店だ……。
男――『橘 恭也』は強くそう思った。と同時に、腕時計の長針は零を差す。
「ごめんください」
反応は無かった。しかし、橘は諦めない。いる。絶対に奴はいる。そんな確信があった。
「ごめんください」
反応は無い。
溜め息を吐いて、目線を上げる。そこには、林檎大の鈴に、紐が天井からぶら下がっていた。
――……まさかとは思うが……これが呼び鈴か?
恐る恐る、紐を掴んだ瞬間――ベリッと何かが剥がれるような音がしたかと思うと、林檎大の鈴が橘の頭に綺麗に直撃した。
「だっ」
シャランシャラン……と、玲瓏たる鈴の音が店中に響く。その音に耳を澄ます余裕など無く、じんじんと痛む頭を抱えた。
「く……っ」
「やあ、いらっしゃい」
顔を上げると、問題の人物――奏一郎が蘇芳色の着物を纏って茶の間から現れた。右手には箸、左手には茶碗がある。
「さっきからずっと、聞こえていたぞ」
爽やかな笑み。何に対する笑みなのか、もしかしたら自分に対する嘲笑か、と思った橘は、眉間に皺を寄せた。
「……なら……何故、すぐに出なかったんです」
ずれた眼鏡を定位置に直し、溜め息混じりに問えば、
「いやぁ、だって今、食事しようと思ってたから、な?」
そう言って、両手のものを見せてくる奏一郎。
足元に転がっていた鈴を拾い上げてから、橘は鞄から書類を取り出す。
「まあいいです……。そんなことより今朝、そちらに送付した書類には、目を通していただけましたか?」
「ああ、あれか。読む前に捨てた」
「……は?」
橘の額に青筋が入る。
――今、『捨てた』と……。『捨てた』と言ったか、こいつ?
「い……今、ご自分が何を言っているかわかっているんですか?」
「うん、捨てた。だって、それ系の文に、興味無いんだもん」
あっけらかんと笑い飛ばす彼。対して、橘は自分の顔が青ざめていくことを自覚した。
――『興味』……!? 『興味無い』で片付けるつもりか!?
橘は怒りを抑えるのに必死だ。しかし、そのとき――。
「奏一郎さん、今朝は、ご飯をどのくらい召し上がりますか?」
ひょっこりと茶の間から顔を出したのは、橘も初めて見る、せいぜい十六、七の少女。それも、制服姿の――。
橘は、眼前の光景に絶句した。
* * *
「奏一郎さん、お客様ですか?」
「うーん、ちょっと違うかも」
不明瞭な応酬を繰り広げる二人。すると、
「……何を、考えているんです? 聖さん……」
「へ?」
耳に入ってきた橘の震える声に、二人は同時に素っ頓狂な声を出してしまう。これにはもう我慢ならんと言わんばかりに、橘は突然、大きな声で捲し立て始めた。
「これはっ! もはや犯罪だ! 二十歳を過ぎたいい大人が、健全な女子高生を家に泊めるなど……!」
一見冷静そうな橘の凄まじい気迫に、小夜子はたじろぐ。
「……そ、奏一郎さん、この人誰ですか、お友達ですか? そして、『聖』って誰ですか」
「ああ、『聖』は僕の姓だ。教えてなかったか?」
――……初めて知りましたよ、奏一郎さん。
奏一郎は、橘を見て微笑む。
「何やら誤解しているようだし……紹介しておこうか? 彼女は、『萩尾 小夜子』。僕の下宿生だ」
小夜子に向き直り、奏一郎は橘の肩に手を乗せる。
「そして、彼が『たちのきくん』。役所にお勤めでね。僕に、『ここから出てってくれ』って言うのがお仕事の人だよ」
「『たちのき』じゃない、『橘』だ! 何度も言っているだろう!」
小夜子は思った。
――……それってもしかして……『立ち退き勧告』……!? まさか、ここ、無くなっちゃうの!?
あたふたし出した彼女の青い表情を見て、奏一郎はにっこり笑う。
「さよ、今朝は大盛りで頼む。ね?」
更新日:2013-09-04 00:49:34