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* * *
薄紫色の空が、徐々に濃さを増していく。ぽつりぽつりと点き始めたオレンジ色の街灯に照らされながら、奏一郎は帰路に就いていた。
「……すっかり、遅くなってしまったな」
もう必要ないだろう、と判断し、小豆色の番傘を畳む。
――……弱い、弱い。……人間は、弱い。
「そ、奏一郎さん」
控えめな声にふと顔を上げると、心屋の前に、小夜子が立っていた。申し訳なさそうに俯いて、腕には銀色の――とーすいがいる。シャッターは開けておいたのだから、中に入って待っていれば良いのに、と奏一郎は思う。
「……あの、万引きされた商品、この、とーすいくんですが、ちゃんと取り返しましたから。だから……」
「……ふ」
口元を押さえて、奏一郎は笑った。
「な、何で笑うんですか……!」
「や、だって、さ。泥だらけだから……」
街灯の少ない薄暗い道でもわかる。小夜子の顔も服も、所々が泥で汚れてしまっていた。
* * *
奏一郎が笑うので、小夜子は少し面白くない。せっかく、必死になって取り返してきたのに、と。いや、元はと言えばカラスに盗まれたのは、小夜子の集中力が切れていたせいでもあるのだが。
「し、仕方ないじゃないですか。色々、大変だったんですから! そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか……」
少し、期待していたのかもしれない。また、誉めてくれるんじゃないか、と――。
「はは、悪い、悪い……。さあ、夕飯にしよう。あ、先に風呂に入った方が良さそうか?」
そう言って奏一郎は再び笑う。少しだけ、小夜子は唇を尖らせた。そんなことは知らぬとばかりに、奏一郎は心屋に入り、店の明かりを点け始める。明るいオレンジの電灯に照らされた店を眺め、彼はぽつりと呟いた。
「……君が来てから、この家は明るくなったな、さよ」
「え……」
――今、“さよ”って呼んだ?
名を呼ばれた瞬間、懐かしい感覚が全身を駆け巡っていく。昔も、そう呼ばれた記憶がある。思い出したくないような、思い出したいような……。
でも、やはり、忘れられない。
「……あの、奏一郎さん」
「ん?」
――……訊いて、いいかな。……いいよね?
「……奏一郎さんは……何者……なんですか?」
この問いに、一瞬目を丸くしたかと思うと――。再び、微笑む彼。その笑みは、前にも見たことがある。階段で。あの時と同様、オレンジ色の明かりに照らされたそれは、妖しく、少しだけ冷たくて。
「……僕は、人間だよ。……そういうことにしといてくれ、今は」
そう言って、まだ明かりの点かない奥の部屋――暗闇へと、消えた。
「早く入りやがれ、女。俺様は腹が減ってんだ」
腕に抱えられたまま、命令をするとーすい。それでも小夜子は、彼に腹を立てることはない。
「……お腹……減るの?」
疑問の方が、遥かに大きいから。
* * *
奏一郎は、空を見ていた。満天の星空。黒い影を背負った、青白い月。
あの親子も、あのとき、同じような空を眺めたのだろうか――。そんなことを、思いながら。
「……今日はご苦労だったな。まさか、カラスに襲われるとはな」
「ふざけんなよ、旦那」
茶の間の机に仁王立ちするとーすいは、どこか怒っているようだ。
「旦那はわかってたんだろ? 俺様が今日、ああなるってこと……」
「うん」
奏一郎は笑う。
「それで、試してたんだろう? あの女が、どう動くか」
「まぁね。嘘を吐くような子や、商品を大事に扱ってくれないような子とは、一緒に生活なんてできないでしょう? まあ、そんなことする子じゃないのも、わかってたけどね」
悪びれる様子も無く、あっさりと白状する。
「……あの女が崖から落ちることも、か?」
「あはは。うーん……あれは予想外だったなあ。あそこまで必死になってくれるとは、思っていなかったから……」
――自分を守るためだけに動く人間だって、この世にはたくさんいるのにな。
……でも、だからこそ。
「人間は、見るのに飽きない」
* * *
携帯電話の奥から聴こえてきたのは、聴き慣れているはずの、久々に聴く声。
《……お父さん、な。しばらく、海外に行くことになったから。……会えなくなるが、風邪、ひくなよ。怪我も、するんじゃないぞ。……お父さんも、煙草はもう止めるから。いつでも、おまえのこと、迎えに行けるようになるから。……だから》
少し弱々しい声。
《待っててくれな、さよ……》
穏やかな声。
機械音が、留守番電話のメッセージの終わりを告げる。
小夜子は独り、涙を流した。
部屋の窓から見えたのは、あの日と同じ、満天の星空――。
《第三章:よわいひと 終》
薄紫色の空が、徐々に濃さを増していく。ぽつりぽつりと点き始めたオレンジ色の街灯に照らされながら、奏一郎は帰路に就いていた。
「……すっかり、遅くなってしまったな」
もう必要ないだろう、と判断し、小豆色の番傘を畳む。
――……弱い、弱い。……人間は、弱い。
「そ、奏一郎さん」
控えめな声にふと顔を上げると、心屋の前に、小夜子が立っていた。申し訳なさそうに俯いて、腕には銀色の――とーすいがいる。シャッターは開けておいたのだから、中に入って待っていれば良いのに、と奏一郎は思う。
「……あの、万引きされた商品、この、とーすいくんですが、ちゃんと取り返しましたから。だから……」
「……ふ」
口元を押さえて、奏一郎は笑った。
「な、何で笑うんですか……!」
「や、だって、さ。泥だらけだから……」
街灯の少ない薄暗い道でもわかる。小夜子の顔も服も、所々が泥で汚れてしまっていた。
* * *
奏一郎が笑うので、小夜子は少し面白くない。せっかく、必死になって取り返してきたのに、と。いや、元はと言えばカラスに盗まれたのは、小夜子の集中力が切れていたせいでもあるのだが。
「し、仕方ないじゃないですか。色々、大変だったんですから! そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか……」
少し、期待していたのかもしれない。また、誉めてくれるんじゃないか、と――。
「はは、悪い、悪い……。さあ、夕飯にしよう。あ、先に風呂に入った方が良さそうか?」
そう言って奏一郎は再び笑う。少しだけ、小夜子は唇を尖らせた。そんなことは知らぬとばかりに、奏一郎は心屋に入り、店の明かりを点け始める。明るいオレンジの電灯に照らされた店を眺め、彼はぽつりと呟いた。
「……君が来てから、この家は明るくなったな、さよ」
「え……」
――今、“さよ”って呼んだ?
名を呼ばれた瞬間、懐かしい感覚が全身を駆け巡っていく。昔も、そう呼ばれた記憶がある。思い出したくないような、思い出したいような……。
でも、やはり、忘れられない。
「……あの、奏一郎さん」
「ん?」
――……訊いて、いいかな。……いいよね?
「……奏一郎さんは……何者……なんですか?」
この問いに、一瞬目を丸くしたかと思うと――。再び、微笑む彼。その笑みは、前にも見たことがある。階段で。あの時と同様、オレンジ色の明かりに照らされたそれは、妖しく、少しだけ冷たくて。
「……僕は、人間だよ。……そういうことにしといてくれ、今は」
そう言って、まだ明かりの点かない奥の部屋――暗闇へと、消えた。
「早く入りやがれ、女。俺様は腹が減ってんだ」
腕に抱えられたまま、命令をするとーすい。それでも小夜子は、彼に腹を立てることはない。
「……お腹……減るの?」
疑問の方が、遥かに大きいから。
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奏一郎は、空を見ていた。満天の星空。黒い影を背負った、青白い月。
あの親子も、あのとき、同じような空を眺めたのだろうか――。そんなことを、思いながら。
「……今日はご苦労だったな。まさか、カラスに襲われるとはな」
「ふざけんなよ、旦那」
茶の間の机に仁王立ちするとーすいは、どこか怒っているようだ。
「旦那はわかってたんだろ? 俺様が今日、ああなるってこと……」
「うん」
奏一郎は笑う。
「それで、試してたんだろう? あの女が、どう動くか」
「まぁね。嘘を吐くような子や、商品を大事に扱ってくれないような子とは、一緒に生活なんてできないでしょう? まあ、そんなことする子じゃないのも、わかってたけどね」
悪びれる様子も無く、あっさりと白状する。
「……あの女が崖から落ちることも、か?」
「あはは。うーん……あれは予想外だったなあ。あそこまで必死になってくれるとは、思っていなかったから……」
――自分を守るためだけに動く人間だって、この世にはたくさんいるのにな。
……でも、だからこそ。
「人間は、見るのに飽きない」
* * *
携帯電話の奥から聴こえてきたのは、聴き慣れているはずの、久々に聴く声。
《……お父さん、な。しばらく、海外に行くことになったから。……会えなくなるが、風邪、ひくなよ。怪我も、するんじゃないぞ。……お父さんも、煙草はもう止めるから。いつでも、おまえのこと、迎えに行けるようになるから。……だから》
少し弱々しい声。
《待っててくれな、さよ……》
穏やかな声。
機械音が、留守番電話のメッセージの終わりを告げる。
小夜子は独り、涙を流した。
部屋の窓から見えたのは、あの日と同じ、満天の星空――。
《第三章:よわいひと 終》
更新日:2013-09-04 00:32:30