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一方

早足にスタジオの廊下を歩く。
時間も遅いこともあり、人は少ない。
自分の表情は見えないが、おそらく必死でだったのだろう。
すれ違う人は皆、大丈夫か、といった表情で私の顔をまじまじと見てきた。

はあ、はあ、と、息が漏れる。
息が中々整わない。
走るのを止め、歩き始めてから大分時間は経っている。
それでも、体は落ち着かない。

汗も出てきた。
体が熱い。
かなり体温が上がっているようだった。
心臓の鼓動は早まり、全身に熱い血液を送っていた。

今の状況が自分でもよくわからない。
冷静になって、出来事を遡る。
私は今、急いで帰ろうとしている。
その前は、楽屋から飛び出して走っていた。
そしてその前は……。

キス……された? ……ゆきりんに?

ゆきりんから恋愛相談を受けていたのは覚えている。
確か、恋した相手がわからなかったはず。
結局手詰まりになって、携帯をいじっているうちにウトウトしてしまったのも覚えている。
全く覚えていないが、何か夢を見ていたような気がする。
それで、夢の中で唇に違和感を感じて、目を開けたら、ゆきりんが目の前に。
ホントに目の前、近すぎて誰だかわからなかったぐらいだ。
思考も完全に停止していた。
寝ぼけていたのもあるが、何が起きたのかわけがわからなかった。
やっとのことで思考が追いついた瞬間、私はゆきりんを突き飛ばしていた。

ただただビックリして、何も考えていなかった。
単純に誰かに襲われていると思った。
身の危険を感じたが故の反応だった。
相手がゆきりんだと気付いたのはそのあとだった。

私に突き飛ばされたあとの彼女の表情をよく覚えている。
私と同じように口を開けて驚いていた。
「何? この状況?」とお互いが思っているようだった。
もちろんそのセリフを一方的に言いたいのは私の方だが、彼女の表情はそう見えた。
自分で自分のしたことがわからない、そんな表情だった。

ただ、私も自分で自分のしたことがよくわかっていない。
もしかしたら、私を起こすための冗談だったかもしれないじゃないか。
急いで楽屋を出てきてしまったけど、私がポカンとして立ち尽くしていれば、笑いながら「ビックリした?」って聞いてきたかもしれない。
それなのに私は……何であんなにも冷静でいられなかったのだろう。
もちろん、よくあることではないが、走って出ていくほどに取り乱すようなことだったのか。
彼女に対する罪悪感を感じていた。

出口に差し掛かったところで一旦足を休める。
気が付けば、みいちゃんからメールが来ていた。
『やほー。ゆきりんとラブラブしてんのか?』
というこちらの状況を全くわかっていない内容だった。
「まったく……」
私は呆れて首を左右に振った。
「ラブラブどころじゃないっての」
そう言って、パチン、と携帯を閉じると私は外へ向かって歩き出した。

大通りでタクシーを拾い、自宅へ向かう。
運転手さんも特に私が芸能人であるということには気づかない。
あんな衝撃的な出来事があっても、窓から見える街は普段と何も変わらない。
見慣れた風景が前から後ろへと通り過ぎていくだけだ。

ふと、ゆきりんと触れ合った唇の感触を思い出す。
プルプルとした柔らかい、今まで感じたことのない感触。
それを思い出すだけで、頭の中が溶けそうになるほど熱くなった。

更新日:2011-06-30 23:13:39

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