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国おもて南郷家の異変

 暁の七つ(午前四時)。南郷甚八は道場の入口で一礼し、正面の神棚まで進み、正座した。磨きあげた床板から涼気が伝わってくる。甚八はさらに丁重に一礼し、しばらく瞑想した。
 
眠気が消え、雑念が去るこの一刻を甚八は好んだ。三年前と比べ、いささかの進歩があるとすれば、心気の澄むこの一刻をもてるようになったことか、と甚八は思う。

 昨夜、道場主遠藤伝兵衛は、遠からず奥義を授けるゆえ、その心積もりをいたせ、と甚八に言った。甚八の胸は高鳴った。三年の修行は無駄ではなかった。素直にその喜びを国許に伝えたかった。
 
 しかし国許の家に考えが及ぶと、心の片隅に黒雲が湧くのはなぜか。黒雲は十日ほど前からときどき現れては消える。
 
 正座する甚八に常にない不安がよぎった。甚八はそれを振り払うように立ち上がった。
 
 手桶の雑巾を固く絞る。道場の端から床を丁寧に拭いてゆく。入門当初、十二間の床の半ばで息がはずんだ。今は道場の端から端まで息を乱さず往復できる。これは目に見える進歩だった。

「甚八さん・・・」
 道場の入口に立った下女がかすれた声で呼んだ。起きぬけの瞼がはれている。

「お糸か。どうした。何か起きたか」
 甚八は早くも身構えた。お糸がこの時刻に起きることはめったにない。

更新日:2009-01-03 12:56:59

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