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回想1

 夢――純也は自分が夢を見ていることに気付いた。
 これが夢だと分かるのは自分を包む世界がひどく曖昧なものだったからだ。
 幼児がクレヨンで落書きした絵の中に迷い込んだかのように、不鮮明な世界。自分が今いる場所がどういうところなのか認識出来ても、それを視ることが出来ない。そんな世界に純也はいた。
 純也の目の前には二人の男がいた。不思議とこの二人だけは純也の目に鮮明に映し出された。
 一人は椅子に座っている袴姿の白髪の老人。目つきは鷹のように鋭く、眉も彼の意思を表すかのように太い。既に齢七十を超えたはずだが、背すじをピンと張る威風堂々としたその姿からは老いは感じられない。
 対して、老人と向かい合うのは若い男だった。きっちりと紺のスーツを着こなし、どこか幼さを残した顔つきに柔和な笑みを浮かべているが、フレームのない眼鏡の向こうではまるで親の仇を見るかのような光を老人に向けて放っている。
 二人の視線が交差する。どちらも目を逸らさない。
 青年の隣にいる純也の方が萎縮してしまうような緊張感がそこには漂っている。
 そんな中、まるで井戸から水を引き上げるかのように、純也は目の前の二人のことを思い出していた。
 老人の名前は神原幹雄。日本を支える大企業の一つ、神原グループの総帥だ。彼の発言の影響力は大きく、それは政治の世界にも及ぶという。その強引なまでの経営姿勢は批判と賞賛を共に浴びながら、日本の中に不動の杭を打ち込んだ。
 そして若い男、彼は三笠拓哉。純也の兄だ。
 純也と拓哉は孤児だった。父親はなく、母親もまた若くして事故で死んだ。駆け落ち同然で結婚した父と母の子供に、手を差し伸べてくれる者などおらず、純也たちは児童施設へと預けられた。純也が五歳のときのことだった。
 施設での暮らしは大変なものだった。そこで暮らす誰もが心に傷を持っている。監督者の見えないところで陰湿ないじめや暴力が頻繁に行われ、純也もその弊害を受けた。
 拓哉はそんな純也を必死で守ってきた。純也の前に立つ拓哉の背中は大きく、たのもしかった。
 純也にとって拓哉は唯一の肉親であり、憧れの存在だったのだ。
「何故呼ばれたか、分かっているか?」
 純也の回想を打ち切るかのように、幹雄が重々しく口を開いた。
「恐らくは」
 拓哉は恭しくを装いながら、頷いた。
「お前を施設から養子に迎えて、もうすぐ十年だ」
「ええ」
「私がお前たちを引き取ったのは、慈善行為ではない。私はお前が私の役に立つと踏んだから、お前を引き取った。まぁ、いらぬおまけもついてきたがな」
 そう言って、幹雄は純也をまるでゴミでも見るかのような瞳で見据える。ただそれだけのことで純也の背中には冷や汗がびっしりと浮かび上がった。
 何も言わない純也に幹雄は短く鼻息を上げると、視線を拓哉へと戻した。
「拓哉よ、契約を覚えているな」
「ええ、神原様から三千万の融資を頂きました。この資金を使い、神原グループをより発展させよとのことでした」
「そうだ。事業を起こすのも、何をするのも好きにしていいと言った。私はお前が何をするのかをずっと見ていた。だがお前は一向に何も始めようとはしないではないか」
 幹雄の言葉に拓哉は沈黙を返した。純也は拓哉の顔を見上げる。そこには仮面を被ったかのような無表情な兄の顔があった。
「そろそろ明確な答え、指針を見せてもらわねばな。役に立たぬ愚か者をいつまでも置いておくほど、私も寛容ではないぞ」
 純也には二人が何の話をしているのか分からない。だが幹雄から放たれる殺意にも似た視線の光は、純也の肝を冷やすには十分すぎるほどだった。
「確かに仰る通りです」
 十分な間を置いて、拓哉が口を開いた。
「ですが、もうしばらくお待ちください。あと少しで成果をご覧いただけるかと思います」
「ほぅ、お前が裏で財界の人間と会っているのは知っているが、そのことと関係があるのか?」
「ええ、今は種を蒔いている最中です。芽が出るまで、もうしばらくお待ちいただければと」
 このとき、純也は不意にえもいわぬ不安に駆られた。
 兄が何をしようとしているのか。
 拓哉は純也に何も語らない。だが二人きりでいるとき、母の遺影を見つめる拓哉の横顔には憎悪と悲しみが並々と浮かんでいた。
 それが誰に向けてのものなのか、このときの純也はまだ知らない。
 そしてそれが分かったとき、兄が何をしようとしているかを知ったとき、
 純也は――

更新日:2010-10-12 23:32:53

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