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「むっちゃん、今日仕事が終わったらさ。あの居酒屋に行かない?」
 売り場の朝礼が終わって、レジの準備をしている所へ結城が
やってきた。はにかんだ笑顔を向けて来る結城を見て、ドキリとした。
「えっ?」
 と、驚いて思わず周囲に視線を飛ばす。
「大丈夫だよ。そばに誰もいないから」
 結城が少し小声でそう言った。
「残業は?大丈夫なの?」
「うん。少し落ち着いたし。もしあっても、今日は定時であがるよ。
だから待ってる」
 結城はそれだけ言うと、去って行った。
 台風の日から1カ月。
 2人きりで逢うのはあれ以来だ。
 売り場で時々他愛も無い言葉を交わす程度だった。
 メールはそれなりにやりとりしているが、その内容はごく普通だ。
会社での噂話や河嶋達の事は全く話題に上らない。“今日の仕事は
ハードだった”とか、“今月は休みが合わなくてガッカリだ”とか、
その程度だった。それでも、メールが来るのは嬉しい。
疑心暗鬼になりながらも、売り場で顔を合わす時の優しい瞳や
メールでのやり取りが、今の睦子にとっては唯一の慰めだった。
いつもと変わらぬ忙しい1日を終えて、睦子は人目を
憚(はばか)って、あの居酒屋へと向かった。途中、結城の
携帯へ電話をしたら、もう向こうに到着していると言う。

更新日:2010-08-29 14:43:59

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