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第二章

 鋭い声に、廊下に出てきた咲耶は顔を上げた。
 迷わず、断固とした足取りで歩き出す。
「弥栄さん! 大丈夫ですか、弥栄さん!」
 台所の扉の隙間から、その叫び声は漏れている。
 その扉を開いた咲耶を怯えたように見上げた斉藤は、すぐに安堵の表情に変わった。
「ああ、守島さん、弥栄さんが……」
 床に跪く青年の傍には、ぐったりと一人の少年が横たわっている。
「急に倒れたんです。頭を打っているかも……。そうだ、救急車を」
 明らかに動揺して、斎藤が腰を上げる。
「大丈夫です。待ってください」
 その空いたスペースにするりと入りこんで、咲耶は少年を見下ろした。
 乱れた前髪の下で、眉間に皺を刻む紫月の顔色は、酷く悪い。
 小さく息を吸いこんだ次の瞬間、咲耶は相棒の脇腹を勢いよく蹴り上げた。
「……ッ!」
 声にならない叫び声を漏らして、紫月が瞳を開く。
 その口から罵声が飛び出す前に、咲耶が先手を打った。
「報告!」
 はっと正気に戻った視線が、一瞬で周囲を巡る。
「死霊、全て浄化完了。取りこぼしはない」
「よし。……気分はどうだ? 吐き気とかはするか?」
「ある意味、中身を全部吐き出しそうだよ」
 腹部を庇いながら上体を起こし、眉を寄せて呟く。それをきっぱり無視して、咲耶は斎藤へ向き直った。
「お騒がせしました。これから最後の処理をしますから、それが終わったらここは一旦安全になります。ご心配なく」
「あ、ありがとうございます。あの、弥栄さんは大丈夫ですか?」
「彼は丈夫なのが取り柄なんですよ」
 不安そうに尋ねられるのを、肩を竦めて答える。
 実際のところ、紫月の受けたダメージはもう殆ど回復していた。しかしだからといって、一切手加減なし、という対応は避けて欲しいのだが。
 内心そう思いながら、紫月は立ち上がった。


「何があった?」
 無人の応接間へ入り、扉を閉めた後、前置きもなく咲耶は尋ねた。
「別に、何も」
 さらりと流す紫月に、苛々と向き直る。
「何もない? つまり、お前は何もない状態でいきなり気を失うような実力しか持ち合わせてないんだな? しかも、依頼人の目前で、だ」
 あまりにも露骨な表現に、流石に紫月もむっとする。
「咲耶。僕は……」
 だが、言葉はそのまま宙に浮いた。
「言いたいことがあったら全部言ってしまえよ」
 咲耶の言葉は、公正で厳格だ。そう、全て正しい。
 だが。
「何でもないよ。……少し、座っていいか」
 頷いて、咲耶は自らソファに腰を下ろした。紫月はその正面に座る。ざっと頭の中で状況を整理して、口を開いた。
「台所には、数もそこそこいたが、困難というほどではなかった。上手くやっていたんだ。……ただ」
 膝の上で指を組み、淡々と状況を報告する。僅かに言い淀んだ言葉を、今度は咲耶は促さない。紫月が自ら話し出していることを評価しているのだ。
 ああ、全く彼は正しい。
 小さく吐息を漏らす。
「最後の方になって、霊が一体、僕に近づいてきた。女性だ。二十歳すぎぐらいの。僕に延ばしてきた手が、どんどん血にまみれて、酷く無惨な姿になっていったんだ」
 説明する間に、言葉は挟まれない。ただ、相棒の視線は厳しい。
 その程度で気絶するようでは、正直、素人以下だ。
 紫月が一層俯いた。カーペットの模様と自分の靴の爪先を睨みつけるようにして、食いしばりそうになる歯を引き剥がす。
「あれは、多分、僕の母親だ」

更新日:2010-07-25 16:31:52

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