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第一章

 九月に入っていながら、そして午前七時という時間であっても、日差しはなおじりじりと肌を焼く。
 熱いアスファルトの上を走り続けていた少年は、赤信号で足を止めた。額から流れる汗を拭い、荒い息を整えながらまっすぐに前を見つめる。
 もう一ブロックも行けば、家に着く。
 足元にちょこんと寄り添っている小さな茶色の犬が、気遣わしげな視線を少年に向けた。


 とあるマンションの、九階フロアに足を踏み入れて、彼は大きく喘いだ。膝に両手をつき、背中を丸める。俯いた顎から、ぽたぽたと汗が滴り落ちる。
 一時間のマラソンの後で、階段のみで九階まで上がることはかなりきつい。薄手のTシャツもじっとりと汗ばんでいる。
 数分後、ようやく顔を上げる。のろのろと足を進め、一つのドアに手をかけた。鍵を外そうともせず、そのまま手首を捻る。
 あっさりと開いたそれを引き、子犬と共に中へと入る。薄暗く、ひんやりとした空気に少年の肩から力が抜けた。
 子犬は、いち早く室内へと入っていった。
 その毛並みはみるみるうちに藍色を帯び、体高は見上げるほどに伸びる。ほんの数秒で、その姿は人のものと見分けのつかない形になっていた。肌の色が、藍色であることを除けば。
「お帰りなさいませ、紫月様」
 廊下の左手のドアの前に、いつの間にか一人の老人が立っていた。しかし、こちらの身長は僅か三十センチほどしかない。
「ただいま、トゥキ」
 紫月と呼ばれた少年が、微笑を浮かべて答える。
「守島様より、ご伝言を承っております」
 深々と頭を下げる老人に、訝しげに小首を傾げた。
「本日、所用のために午後まで出かけられるとのことでした」
「なるほど。ありがとう」
 紫月に毎朝のトレーニングを言い渡した守島咲耶は、その代わりのように朝食は用意しておいてくれていた。だが、今日はそれを望めないようだ。
 元々食が細い上、この暑さの中での運動を経て、食欲は無いも同然だった。一食ほど抜いても構わないだろう。
 そう結論づけた紫月の前に、藍色の肌の青年が戻ってきていた。着替えとタオルを突きつけて、僅かに眉間に皺を寄せている。
 苦笑して、紫月はそれを受け取った。
「判ったよ。軽い物を適当に頼む、カルミア」
 相変わらず何の言葉も発しないが、青年は嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。
 浴室へ足を向けた紫月の背後で、トゥキの姿が溶けるように消えていった。


 聖エイストロス教団の教会で、弥栄紫月の人生が劇的に変わってから、ひと月ほどが経っていた。
 あの直後、共に住居を失っていた紫月と咲耶の二人は、しばらくホテル暮らしをしていた。しかし、いつまでもそれを続ける訳にもいかない。
 そこで、咲耶が見つけてきたのがこのマンションだった。
 メゾネットタイプの二世帯住宅だ。九階が紫月の部屋で、十階が咲耶の部屋になった。
 二世帯住宅であるから、各階に一通りの設備はついている。リビングの片隅に上下階の行き来ができる階段がついていることぐらいしか、普通のマンションとの差異はなかった。
 こんな特殊な住居を選んだのは、端的に言えば彼らがお互いを信用していなかったからである。
 弥栄紫月は西洋魔術を扱うし、守島咲耶は筋金入りの陰陽師だ。
 二人は、自分の部屋の防御を相手の術に委ねることなど、我慢できなかったのだ。
 この家でも、繋がっている階段部の防御をどちらに任せるかで少々揉めたが、結局十階の床を境にして上下に分けることで納得していた。
 ……譲れないところはあったが、それでも紫月は咲耶に感謝している。
 彼は、あの仕事が終わったら紫月を放り出してもよかったのだ。
 むしろ、それが当然だっただろう。彼が同い年の少年の面倒を見る筋合いなど、微塵もない。咲耶が二年間も一人で生活している以上、紫月がそうできないなどという言い訳はきかないのだから。
 それなのに、彼は何くれと世話を焼いてくれている。……少々、スパルタ気味のきらいはあったが。

 浴室から出てリビングへ入ると、カルミアは既に朝食の用意を整えていた。
 焼きたてのトーストにベーコンエッグ、野菜ジュース。
 その『理想的な朝食』に苦笑しながら、椅子を引く。
 カルミアとトゥキは、いわば養父の遺産だった。
 二人とも、養父に召還された悪魔である。
 カルミアは以前から紫月の護衛兼使い魔として使役されており、それは召還主である養父が死んだあとも続いている。
 トゥキは、正確にはトゥキ・ウルという名で、養父の書庫の管理を任されていた。遺産として継いだ書庫に、管理人もついてきたというわけだ。
 洋室の一つに詰めこんだ大量の書籍に思いを馳せる。
 咲耶が午後までいないのなら、今日の特訓はもうないだろう。少しあそこで本を読んでいようか。

更新日:2010-07-25 16:24:58

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