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 ふいに目眩がして、咲耶が目を眇める。ちらちらと視界が黒と白の点滅で覆われ、そして。
 次の瞬間には、彼は漆黒の闇の中にいた。
「……紫月!」
 呼び声は、虚しく闇に包みこまれた。
 覚えのある感覚に、眉を寄せる。
 ねっとりとした、敵意。穢れにまみれた、興味。そして、酷く軽々しい、殺意。
「大当たりかよ……。ていうか、メインは紫月の方だと踏んでたんだけどな。俺まで巻きこまれるのかね」
 ま、いいか、と呟いて、咲耶は手を上げた。長い髪を一つに結っている、白い組紐を引く。ばらり、と流れ落ちる黒髪を無視して、紐の両端を持ってぴん、と張った。
 小さく呟いたあとで、片手を離す。紐は、真っ直ぐに伸びたまま、少年の手に握られていた。
 それをまるで刀のように構え、油断なく周囲を探っていた咲耶が、ふいに素早く振り向いた。
 その視線の先に立っていた相手の姿を認め、僅かに眼を見開く。
「咲耶」
「……兄貴?」

 鼓動が大きすぎる。苛立ちに、紫月は顔をしかめた。
 こちらに向かう殺意に、臆しているわけではない。対処する手段は幾らでもある。
 それでも、この場所で直面した怪異に、とても平静ではいられない。
 ああ、せめてこの心臓の音さえ聞こえなければいいのに。
「……紫月」
 聞き覚えのある声に、息を飲む。
 ゆらりと姿を現したのは、二日前に目にした、女性の霊だった。
「貴方、は……」
 粘つく喉が、不快だ。
「貴方は、僕の母親なんですか……?」
 悲しげな瞳が、じっとこちらを見つめている。
「紫月。警告したのに。どうしてここへやってきたの」
 ゆっくりと、手が伸ばされる。白い指が、紫月の頬を撫でた。
「母さん……」
 奥歯を噛みしめる。涙が滲みそうになって、紫月は目を細めた。
 白い指が、顎の線を辿り、そして。
 鋭く、紫月が喘ぐ。
「母さ、ん……!」
 母親の指は、きつく、息子の首に巻きついていた。


 目の前の人影が、力なく息を吐き出す。ずるり、と地面へ崩れ落ちる身体を感じて、突き出した得物を引き抜いた。
 嫌な手応えを振り払うように、鋭く、目の前を一度薙ぐ。ひゅん、と、手にした組紐は空気を切り裂いた。
「えーと、何人だっけ。九人ぐらいか?」
 呟きながら、落ちてくる髪をうっとうしげに振る。
「奴の意図が読めねぇな。……何なんだ」
 大体弱すぎるし、と咲耶は小さくつけ加えた。
 ふわり、と、周囲に今までとは異なる臭いが流れた。
 あからさまに嫌そうな顔になって、少年は振り向く。
「……よぅ。久しぶりやな、咲耶」
「ああ、そうか。判ったよ、嫌がらせか。もう完璧に嫌がらせか。なぁ」
 嫌悪に満ちた視線を相手に向けて、両手で『白刃』を構える。
「お前に言っても仕方ないかもしれないが、とりあえず煙草は吸うな」
 嘲るように、これ見よがしに紫煙は流れていた。


 苦痛が全身を支配している。
「……どうして……」
 浅く、呼吸を繰り返す。
 べっとりと、腹部を中心に溢れる血液の感触が、酷く不快だ。
 首を絞められ、切り裂かれ、抉られ、折られ、打たれた結果としてはまあ順当ではある。
 しかし、普段ならばこの程度のダメージは数十分で回復するのだが、現在のところその兆しはまるでない。
 生まれて初めての状態に、心が揺らぐ。
「どうし、て……」
 彼を殺してきた人々の顔を思い浮かべる。
 全て、彼が信頼し、親しみを持っていた相手だった。
 涙が頬を伝い落ちていくが、それを拭うだけの余裕もない。
 ただ力なく座りこんだ紫月の前方から、新たな気配が近づいてきていた。
 それに対して、かろうじて視線を向けるのが、やっとだ。

更新日:2010-07-25 16:40:09

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