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第三章

 濃い緑の枝を透かして、木漏れ日が眼を射る。
 日差しはまだまだ強いが、山の中では少しばかり気温が低いのか、空気は爽やかさを含んでいる。
 それでも、山道を登り続ける少年にはあまり慰めになっていないらしい。無造作に、額の汗を拭う。
「大丈夫か?」
 数歩前を歩いていた、長い黒髪の少年が尋ねる。
「平気だよ」
 短く返して、足を進める。
 午前中に自宅を発った旅程は、もう午後を半ば過ぎていた。
 数時間、特急と鈍行を乗り継ぎ、またその先でバスに揺られ、着いた先がこの山の中だった。
 更に、枝分かれした道を一時間は歩いている。
 咲耶の足取りに一分の迷いもないことだけが、紫月を後についていかせていた。
 今は、この先に待つものを想像するだけで叫び出しそうになるのを、抑えこむのがやっとだ。
 少年たちの頭上に、道路標識が現れる。
 直行する矢印と、『安崎村』という文字が彼らを先導していた。

 まばらに建つ家屋が、集落の入り口を示している。
 道路に人気は全くない。
 平日の午後という時間帯だからだろうか。子供たちは学校だろうし、大人は仕事に出ているのだろう。
 言葉を交わす相手もなく、彼らは道を進んだ。途中の脇道に入ると、それは十数メートルほどでアスファルト舗装ではなく砂利道へと変わった。
 鬱蒼と茂る竹藪を抜けた先に、それはあった。

 小さな、小さな小屋。
 所々、屋根瓦の隙間からは草が生え、壁も風雨に晒されたままだ。明らかに、人が住まなくなって何年も経過している。
 ぎしり、と奥歯を噛みしめて、紫月がその姿を睨み据えた。
「覚えてるのか?」
 穏やかに、咲耶が声をかける。
「……ああ。もう少し、大きい家のような気がしていたけど」
 できる限り平坦な口調で、紫月が答える。
 この家は、幼い頃に紫月が母親と、もう一人の男と共に住んでいた家だった。

 扉は南京錠と鎖で固定されていたが、その程度が障害となる二人ではない。
 あっさりとそれを外し、がたつく扉を開く。
 窓は外から板が打ちつけられていて、室内は酷く暗い。
 入ってすぐは三畳ほどの土間。その奥に、元は畳敷きだっただろう部屋が続いている。今は畳は取り払われ、埃っぽい板の間が晒け出されていた。
 無理もない。この部屋で、男女二人が死んでいたのだ。
 当時の記録を読んだだけでも、酷く凄惨な状況だったことが伺われる。
 流石にもう十年以上が経ち、血臭などは微塵も感じられないが。
 ちょっと躊躇って、咲耶が靴のままで上がりこむ。
 部屋の中央で立ち止まり、ぐるりと周囲を見回した。目につく襖などを開いてみるが、すぐにふらりとその場を離れる。
「どうだ?」
 あまり戸口から奥には移動しないまま、紫月が尋ねた。眉間に皺を寄せ、咲耶は前髪をかき上げる。
「んー……。どうも変だな。ここに残ってる感じは、全然しない」
「相変わらず勿体ぶった言い方をするんだな」
 苛立ちを嫌みに滲ませて呟く。肩を竦め、咲耶は相棒へ向き直った。
「お前はどうだ? 何か働きかけられているか?」
 問いかけに、ただ首を振る。

 ……昨日までの仕事で、母親の霊に出会ったこと。紫月は勿論だが、咲耶もそれを重要視していた。
「前にも言ったが、今、この時期になって、どうして彼女がお前の前に出てくるんだ? 出るなら死んだ直後から出るだろうし、出ないならずっと出てくる筈がない」
 死者にも紫月にも全く遠慮というものを見せず、咲耶はそう断じた。
「あの杉野が、何かしらの抑止になっていた、という可能性はある。だが、杉野が死んでからでさえ一ヶ月は経っている。俺はこの、どちらにせよ存在する空白期間が気に食わないんだよ。まるで、何かの準備期間ででもあるみたいに」
 だから、母親が死んだ現場を見に行こう。そう、告げられて紫月は拒否できなかった。
 ここへ来たかった訳では全くない。忌まわしい記憶の断片だけでも、彼が持っているには重すぎる。
 しかしそれでも、母親に関する謎を抱えたままでこの先ずっといられるのかどうか、自信はない。
 揺れ動く意思を抑えつけ、前日に帰宅した際に自ら養父の遺品を調べ、母に関する情報を得ようと試みてみたのだ。
 結果から言うと、母個人の情報は殆ど残っていなかった。一枚の写真すら。
 その、何もなさが意図的なものを感じさせる。
 深入りしてはいけないのではないかという不安だけが増大していた。
 だがその躊躇を、咲耶は呆気なく突破して彼を連れ出した。
 まあそもそも、旅行へ出る理由を聞かされたのが既に特急列車の中だったという手遅れ感も勿論あったが。


 しかし、辿り着いた場所には明らかな手がかりもなく、彼らの旅はいきなり肩すかしをくらった。

 くらった、ようだった。

更新日:2010-07-25 16:38:58

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