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そして、歌いだす。



音楽に対する愛情は、部活の継続のようなものだった。

高校からトランペットを吹き始めて、
バンプに憂鬱を感じて、
ギターに触れて歌を始めた。

音楽の専門学校に進んだのは、大きな夢を抱いているとか、
そういった熱によるものじゃない。


俺は字が綺麗だけど、
それっぽく聡明に話せるけれど、
相当な馬鹿だった。

試験にパスしてどこかへ入るのは不可能だったのだ。


俺は学校に入り、
資料請求して届いた希望の言葉とは裏腹な、
設備の悪い機材の中勉強をした。

曲を作る人になろうか。
トランペットを吹く人になろうか。
ギターをかき鳴らす人になろうか。

散々迷ったが、
俺は歌う人になった。

しかし消極的な性格のせいで、
2年生になった今も、ライブに出たことはない。





「田中健太くん」

「はい」


コンプレックスは多い。
例えばこの名前。

手本だろう。
なにかの書類の見本だろう。

ハイカラに彩られた現代の名簿の中で、
俺の名前はなんとも違った意味で目立つ素朴さだ。


「健太、お前なんでそんな顔してんの」

「あー、険しい?」

「うん」

「出席取られるの嫌いなんだよね」

「何でだよ」

「俺ださいんだもん」

「何の話だよ」

「お前はいいじゃん。岸川壮!ソウ、あー良い響きだ憎たらしい」

「よくわかんねー」


ソウは笑った。
ソウも歌う人だ。
そしてクラスで一番喋る仲間だ。
更に言えばクラスで一番のイケメンだ。

音を聴いてすぐ超絶的なピアノを乗せられるタイプの歌い手で、
一番プロに近い位置まで駆け上がっている。

ああ、ちなみに言っておく。
俺のルックスは名前に見合って超がつく普通だ。


「高橋幸太くん」

「はい」


ミドルの高い声で返事をした彼の名が、俺は好きだった。

同志だと思った。
高橋くんは今年入ってきた一年生で、
名簿を見たとき一番に声をかけようと決めていた。

素朴な名前だね。俺もそうなんだよ。コンプレックスなんだ、よろしくね。

その台詞はいえなかった。

初めて1、2年合同の授業で自己紹介をした彼は、
彫刻のように完璧な造りをしたイケメンだったのだ。



「奈月寿理さん」

「はい」


20数名の新入生の中、
名簿を見て高橋と同時に彼女を気にしたのも、
この名前のせいと言っていいだろう。

ナツキジュリ、

ナツキジュリ、

ナツキジュリ。

なんて美しい響きなんだろう。
そして美しい返事だ、声が澄んでいる。

モデルのようなスタイルと長い黒い髪、
エキゾチックな顔立ちは初対面の時直感的に思った。


彼女は歌い手だ。


「お似合いだよな」

ソウが唐突に言った。

「何が」

「高橋と奈月」

「確かに」


高橋とナツキジュリは高校が一緒だったらしく、
専門に入学したときすでに恋人同士の関係だった。

正直そんな事は「へえ」の一言で終わる事項だ。

俺はナツキジュリを色んな面で美しいと思ったが、
下心は全く抱いていなかった。


「で、健太」

「なんだよ」

「お前彼女とはどうなの」


俺は少し笑った。


「普通に、仲良いよ」

「このリア充が!マジ飛べよ」

「飛べって。それ死ねよより傷つくな」



俺には彼女がいる。

そしてナツキジュリには高橋がいる。


互いに安穏な幸せを送っていた。
でもこの音楽という世界の中で、
それは変わっていく。

割と壮絶に変わっていく。


この物語はそういう話だ。





更新日:2010-06-06 22:39:19

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