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第二章 闇を駆ける少女

西暦2010年。5月中旬。A市立病院。

「先生! 血圧が低下しています! 危険です!」
やめて……。
「くっ! やむを得ないか!」
やめて……。
切らないで……。
「みんなよく聞け! 左足は諦める!」
足が無くなったら……私……もう……トラックに……。


西暦2010年。5月下旬。桃ノ葉学園放送室。

放送室に設けられた唯一の窓の前に立つ私、井上ほのか。
眼前には、鬱蒼と生い茂った森が広がっている。
学校の敷地の一番端にあるこの放送室の窓から見える景色といえば、この通りひたすら“木”のみ。
そんなおもしろくもなんともない景色を、私はぼんやりと眺めていた。
「いや~、遅くなってごめん。ちょっと野暮用があってねえ」
背後から、放送室の重たい扉を開く音と共に、間延びした声が聞こえてきた。
振り向くと、そこには一人の男子生徒。
天然パーマと眠そうな目が印象的なその人は、この放送部の部長を務める二年生の藤原道夫さん。
「ったく! なにやってんだよ! あんたほんとに部長の自覚あるのかい!?」
藤原さんに噛み付いたのは女子生徒。
左側が長く、右側が短い大胆なアシンメトリーの髪型に大柄な身体付きの彼女は、同じくニ年で部員の後藤要さん。
「あ、あるよお。あるある。大ありだよお」
そう言って部屋の中央部に置かれた粗末なテーブルに着く藤原さん。
「さて……井上くん。話があるってことなんだけど……」
居住まいを正した藤原さんのその言葉に黙って頷き、私は二人の向かいの席に腰を下ろした。
「あの時のこと……お話します」
私の心はもう、決まっていた。



「なるほどねえ」
藤原さんは顎に手を当てて唸った。
「…………」
後藤さんは難しい顔をして黙り込んだ。
それが、私の話を全て聞き終えた二人の反応だった。
四日前に私の身に起こった一連の出来事。
エレーモスに入ったこと、変態したこと、バ・ガ・ブウと名乗る奇怪な怪物と対峙したこと。
銀太と遭遇したことはあまり深く知られたくなかったので、少し事実を曲げて話したものの、私はそれら全てを詳細に二人に語った。
「しかし、井上……」
沈黙していた後藤さんが口を開いた。
「あの日……。エレーモスが発生した日の翌日さ。あんた、泣きながら部室にやってきたろ? なんかあったってのはあたしにもわかったよ。けど……なんだい……その……クラスメイトにそんなこと言われてたなんて……辛かったろうね」
そう。
エレーモスが発生した翌日。
銀太の言葉に耐えかね、放送室に駆け込んだ私を、後藤さんはなにも訊くことなく好きなだけ泣かせてくれたのだった。
そして、ひとしきり泣いた私に、後藤さんはよく冷えたヤクルトを差し出しながらこう言った。
『あんたが話したくなったときに、話せると思える範囲で話しな。あたしらはいつでもかまわないからさ』
差し出されたヤクルトを受け取って、私は放送室を後にした。
あれから三日が経った今日。
ここに私がこうしているのは、きっと、後藤さんのあの優しい言葉のおかげだと思う。
「そう……ですね。やっぱり、ぎ……クラスメイトの子にあんなふうに気持ち悪いとか言われちゃうと、傷ついちゃいますね」
思わず『銀太』と言いそうになり、言い換える私。
今二人に話した内容では、遭遇したのは銀太ではなく、同じクラスの女子生徒ということになっているからだ。
「容姿のことだもんね……。井上くんは女の子だからなおさら……」
藤原さんも沈痛な面持ちをしている。
重苦しい雰囲気が室内に漂う。
「でも、私、決めたんです」
その雰囲気を打ち破ったのは、他でもない、私だった。
「この三日間、すっごく考えて、すっごく悩みました。それで、決めたんです。闘うって。確かにものすごく怖いです。変態するのもいやです。でも、そういう怖いのをなくして元の生活に戻るためには、もっとエレーモスのことや怪物のことを調べて、その謎を解くしかないんだって、そのためには闘うしかないんだって、そう思ったんです!」
私は我知らず立ち上がっていた。
「それに……藤原さんが言ってたこと……私の大切な人が怪物の標的になったらっていう話も、理解できた気がするんです。私は藤原さんに『そんなの脅迫だ』なんて言いましたけど……でも……あの日エレーモスでクラスメイトに会ったことを思うと、その通りだなって……。私はあの子に変態した姿を見られて……怖がられて……それはあの子にとっても、私にとってもいやな出来事だったと思います。それでも、もしもあそこに私がいなかったら、あの子はきっとバ・ガ・ブウに殺されちゃってたんだって……」
怯える銀太の姿が脳裏をかすめた。


更新日:2011-03-21 01:46:56

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