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第七章 Twin Shaft Waltz

西暦2010年。8月中旬。A市立A高等学校。

 ポールを構え、私は地を駆ける。前方に見えるバーと着地マットがぐんぐんと近づいてくる。
(そこっ!)
 瞬時に見定めたボックスの最適な位置にポールを突き立て、『ふっ!』と短く息を吐きながら跳躍。そのまま私の身体はポールの反発力によって宙に舞い上がった。すぐ前方には“目標”が見える。私はそれを越えるべく、両腕に瞬間的に力を込め、同時に身体を空中で捻る。ぐるんと景色が反転し、自分が駆けてきた地面が見えた。すぐさま握り締めていたポールから手を離す。
(だめっ!?)
 ターンのタイミングが一瞬遅れた気がした。失敗の二文字が脳裏をかすめる。しかし私の身体は目標の上すれすれを何とか通過し、真っ逆さまに落下していった。
「っ!!」
 そして軽い衝撃と共に背中からマットに着地。
「おーーー!!」
「すげーー!!」
「坂本先輩かっこいい!!」
 マットの周囲に陣取っていた部の仲間たち――部外者も一部混じっている――が一斉に歓声を上げた。
「だめだめ。ぎりぎりだったもん。この程度の高さだったらもっと余裕がなきゃね」
 私はマットから降りて、興奮状態の一同に向かってぱたぱたと手を振って見せた。
「いやいやいや! この高さなら国体だって狙えるよ!」
「そうそう! 鳥人坂本より高く跳べるやつなんて、もうこの県内には誰一人としていねーよ!」
「高校生女子の最高記録を塗り替えるのも時間の問題ね!」
「坂本先輩素敵~!」
 みんなが口々に浴びせてくる言葉が妙にこそばゆくて、私は曖昧な微笑を作った。
 私の名前は坂本陽奈多(さかもとひなた)。A市立A高校に通う二年生だ。部活はこの通り陸上部で、棒高跳びをやっている。
 中学の頃はこれといった趣味もなく、部活だってソフトテニス部の幽霊部員だった私が高校に入ってから何となく始めたこの棒高跳びという競技はどうやら私に向いていたらしく、みんなが言うほどではないにせよ一応それなりの実力をこの一年ほどで持ち合わせるに至った。
 とはいえ、私はこの棒高跳びという競技が好きでやっているだけであり、記録や実力というものにはそれほど興味がないというのが現実だった。それこそまるで鳥のように高く空に舞い上がるあの爽快感が堪らなくって、ただ純粋に“もっと高く”と思い続けた結果が記録や実力というものに繋がっているにすぎないのだ。
 そういった私の本音とは裏腹に周囲の人々は過大な賞賛や期待を私に向けてくる。
 その二つのギャップが、ここ最近の私の悩みの種だった。
「顔洗ってくるね」
 私はみんなにそう告げてグラウンドの端にある手洗い場の方へ歩き始めた。
「今日も暑いなあ」
 熱気が立ち込める砂地のグラウンドを踏みしめながら何気なく天を仰ぐと、爽やかに晴れ渡った夏の空に白っ茶けた半円がぽっかりと浮かんでいた。
「美月……」
 私は右手首に装着した真っ赤なリストバンドの表面を指先でゆっくりと撫でながら、目に痛いほどの群青のただ中で所在なげに浮かぶ真昼の月に向かって呟いた。
 それは私が最近抱えているもう一つの悩みの種――私の“半身”の名だった。


西暦2010年。8月中旬。私立清麗女子高等学校。

「さっさと出しなさいよ」
 肩まで伸ばしたセミショートヘアの生徒が私をねめつけている。
 彼女は私のクラスメイトで、林田さんという。
「この子震えてる~!」
「ほんとだ~! ダサ~イ!」
 同じく私のクラスメイトで、ポニーテールの岸さんとお団子頭の岡本さんが、林田さんの両脇でくすくすと楽しそうに笑っている。
「出せって言ってるのが聞こえないの!?」
 薄暗くてかび臭くて狭苦しい体育倉庫の中に林田さんの怒声が響き、私はびくんとすくみ上がった。
「ね~、早くしてよ~! 私たちこれから桃学の男の子たちと遊びに行くんだからさ~!」
 岸さんが面倒くさそうにポニーテールの根元を掻いた。
「坂本さ~ん、これ以上うちらのことイラつかせるとマジでヤッちゃうよ?」
 岡本さんは口の端を吊り上げてサディスティックに笑む。
 三人のクラスメイトから浴びせられる圧倒的な負のオーラ。それに抗う術を持ち合わせていない私は、
「は……い……」
 制服のスカートのポケットから三つ折にした紙幣の束を取り出して、林田さんの前に差し出す。
「最初から素直にそうしてればいいのよ」
 憮然とした表情の林田さんが震える私の手から紙幣をもぎ取った。この瞬間、私が十数年間一度も使わずにこつこつと貯めてきたお年玉は全て無くなった。


更新日:2012-09-01 00:44:05

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