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第五章 “9”

西暦2010年。6月下旬。桃ノ葉学園普通科1年2組。

「は~い、そこまで。後ろから回収して~。こら、鈴木、もうタイムアップだ。諦めろ~」
 のんびりとした先生の声を合図に、それまでしんと静かだった教室が一瞬でざわざわと騒がしくなる。試験終了後に訪れるその独特の雰囲気の中、私は抜け殻になっていた。
「ねえ、ほのか、三番って何て書いた?」
 隣の席に居るはずの命の声がやけに遠くに聞こえる。
「ほのか?」
「…………」
「ぜ、全身真っ白になってるけど大丈夫?」
「終わった……」
「え?」
「終わったよ……命……」
 そう言い残して私は机の上に崩れ落ちた。
 ――赤点。
 今の私の脳裏を埋め尽くすのは、真っ赤なインクで書き殴られた絶望的なその二文字だけ。決死の一夜漬けは見事に通用しなかったのだ。
「ほ、ほのか、元気出して。きっと大丈夫だから」
 みじめに丸まった私の背中を命がさすってくれる。涙が出るほど嬉しい。やっぱり持つべきものは痛みを理解してくれる優しい親友だ。
「おーい! ……にひひひ、死んでるやつ発見」
 ほんと――嫌味で意地悪なだけの幼馴染みとかウザい。うっとうしい。顔も見たくない。
「な~、ほのか~」
 無視。
「ほのかさ~ん」
 無視無視。
「サル~」
 断固として無視――
「誰がサルだ!」
 できなかった。私は怒声を吐いて立ち上がる。
「こらこら~。神谷も井上も、夫婦喧嘩は礼をしてからやれ~」
 呆れ顔で先生が言うと、クラスメイトたちからどっと笑いが起こった。
「夫婦じゃありません!」
「夫婦じゃありません!」
 綺麗にハモる私と銀太に、教室内はさらなる爆笑の渦に包まれる。
「わかったわかった。じゃあ、級長、号令」
「きりーつ」
 そんなこんなで放課後へと突入し、
「え――五番って3なの!? ううっ……あそこはわりと自信あったんだけどなあ……」
 現在は命と銀太と私の三人で目下答え合わせの真っ最中である。
「じゃあじゃあ、十番は!?」
「4……かな」
「4だろ」
「いやーーーーーー!!」
 にしても一体いくつあるのだろう。私が二人と違う答えを選んだ問題は。
「お、お前それマジで赤点なんじゃないのか?」
「だってえ……数学苦手なんだもん」
「あ、え、えっと――ほら、明日はほのかが得意な英語と現国じゃない! だから――ね? 気持ちを切り替えて頑張ろうよ!」
 励ましてくれるのは嬉しい。でも……。
「明日は数Aもあるよね……」
 今日のは数1だったのだ。
「そう……だったね……」
 フォローするつもりが逆に傷を抉ってしまい、命が申し訳なさそうに呟く。
「み、命ーー! お願い助けてーー! 今から数学教えてーー!」
 私はたまらずその胸にすがりついた。
「ごめんね、ほのか。わたし今日はこれから塾があるから……」
「え~! やだやだやだあ! 行っちゃやだあ!」
 駄々っ子のように胸の谷間でぐりぐりと頭を振る。
(ああ……私は頭のよさだけじゃなくて……胸の大きさでも命に負けてるんだあ……)
 ふくよかな感触に涙が出た。
「あ――そうだ! 神谷くんに教えてもらえば? うん、それがいいよ! ね? 神谷くん!」
「いい!? お、俺!?」
 突然のパスに銀太はたじろぐも、
「やだ! やだやだやだ! 銀太みたいなバカに教わったら余計に点数が下がるもん!」
 そんな提案はこっちからお断りだ。絶対にノー。私は再び命の柔らなおっぱいをぐりぐりして拒絶の意思を訴える。
「なっ――誰が馬鹿だ! お前よりはましだ!」
「やだったらやだあ! 銀太はバカだからやだあ!」
「ば、馬鹿馬鹿言うな! マジで怒んぞ!」
「じゃあ……アホアホアホ! アホ銀太!」
「よりいっそう腹立つわ!」
「エッチスケベ変態ロリコン!」
「それ違う! 何か違う! ……てか俺ロリコンじゃねえよ! んなこと大声で言うな!」
「えーーーーん! ロリコンでバカの銀太がいじめてくるよーーーーー!」
「てめっ――! おおし、わかった。そんなに言うんなら俺が馬鹿じゃねえってこと証明してやるよ。特訓だ。数学の特訓してやる」
 急に声色を落ち着かせたかと思うと、銀太は私の襟首を鷲づかみにして命の胸から強引に引き剥がした。
「やだよ~! 命~!」
「るっさい! 行くぞ!」
 ずるずると引きずられるようにして教室を出る私の目に、遠ざかる命の苦笑いがひどく眩しく映った。
 ややあって――。
「ねえ、勉強ってどこでやるの?」
 下駄箱から靴を取り出しつつ私は尋ねた。……背に腹は代えられないので、渋々ではあるけれど教えられてやることにしたのだ。


更新日:2012-08-24 22:36:50

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