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第X章Ⅰ 細切れの風景

西暦2010年。6月中旬。A市立病院精神科病棟。

「お……が……さ……ん……。ゆるじ……でえ……。お……があ……ざ……ん……」
ベッドに身を起こした金髪の女は、口の端から垂れる涎も気にせず、うわ言のように同じ言葉を呟き続けている。
虚ろなに開かれた瞳は何も見ていないようでありながら、何かを凝視するようにじっと一点に注がれている。
病院のものと思われる薄い緑の羽織から出でた首、そして顔面には、赤紫色をした巨大なみみず腫れがあちこちに見受けられる。
それはあまりに凄惨な姿であった。
「警部補……これではやはり……」
ベッドの傍らに佇んだ薄茶色のボブカットにパンツスーツの若い女が、壁に寄りかかって経つ中年の男に向かって言った。
警部補と呼ばれた男は、『チッ』と舌打ちをすると、つかつかとベッドに歩み寄った。
短く刈り上げた髪。
よれよれのスーツに無精ひげ。
口には禁煙パイプ。
“警部補”と呼ばれるからには彼は警察組織の人間なのだろうが、その風体はどう見てもチンピラだ。
「こいつがホシか、ホシの共犯者に違いねえってのに……くそいまいましいぜ!」
「そのことなんですが……ほんとうにそうなんでしょうか?」
「ああ?」
「鑑識の報告によれば、被害者の女性は鋭利な爪で全身を切り裂かれての失血性ショック死。しかも、その爪は道具などではなく、間違いなく生物の爪とのこと……。そんなことが……その……人間に可能なんでしょうか?」
「浦木い、じゃあなにか? こいつの母親は自宅で熊にでも襲われて、その後人でごった返す夜の駅前に捨てられたとでも言うのかあ? しかも自宅から駅前まで誰にも見られることもなく! そらあ大した熊だなあ、オイ!」
酒と煙草で焼けたがらがらの声で中年の男は一気に捲くし立てた。
「それは……」
浦木と呼ばれた若い女は言葉につまる。
「繁華街のど真ん中で気い失ってた娘と、そのすぐそばで切り刻まれて死んでた母親……爪のような傷跡……殺害現場は自宅……喧嘩の絶えなかった母娘関係……。どうやったかは知らねえがなあ、こいつが何らかの形で殺しに関わってることは間違いねえ。俺の刑事としての勘がそう言ってんだよ」
「実の母親を……こんな惨い手口で殺したというんですか?」
「ああ」
「そんな……。あの……警部補」
「あん?」
「犯人は他にいて、彼女はその犯人に母親共々襲われた……ということは考えられないでしょうか。彼女の顔や首の傷はその時のものでは?」
「俺も最初はそう思ったさ。しかし、それは違う」
「なぜそう思われるんですか?」
『それも勘ですか?』と口にしそうになった浦木は、慌ててその言葉を飲み込んだ。
「そいつの言ってることがお前には聞こえねえのか?」
男はベッドの上の女に向かって顎をしゃくった。
彼女は相変わらず同じ言葉を呟いている。
「そいつは今、自分のしたことを懺悔してやがんのさ。自分がぶち殺した母親に必死こいて許しを請うていやがんだよ。まったく……吐き気がするぜ!」
ベッドの足をつま先で小突く。


更新日:2011-05-04 22:08:06

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