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第一章 覚醒

西暦2010年。5月上旬。A県A市某所。

「サルビア、新聞見たか?」
ブラインドの前に佇んだ髪の長い長身の男が言った。
「ええ」
サルビアと呼ばれたその女は、グロテスクなほどに美しい顔立ちをしている。
「今回のも間違いないな」
男は赤いパッケージの煙草をシャツの胸ポケットから取り出し、一本抜き取って火を着けた。
「そうね」
「動くか?」
「焦らないの。ガキはせっかちでイヤだわ」
「ふん」
男は肩をすくめてみせた。



「おはよう。命」
いつもの朝の登校風景。
同じ制服を着て同じ方向を目指す生徒たちの群れの中、前を歩いていた見知った後ろ姿に駆け寄り、声を掛ける。
「あ、おはよう。ほのか」
振り向いたのは、黒縁眼鏡に三つ編みという今ではもう天然記念物になってしまったスタイルの女子生徒。
彼女の名前は白石命(しらいし みこと)。
私の中学の頃からの親友だ。
「今日の数学の小テスト、やだね」
「え!? 小テスト!? なにそれ!? 知らない!」
「えー! 昨日の授業中に先生やるって言ってたでしょ? ほのか、聞いてなかったの?」
「う……私……寝てたんだあ……」
「もう、しょうがないなあ。じゃあ、教室に着いたら一緒に勉強しよ?」
「う、うん。ごめんねえ」
鬱蒼とした針葉樹の森に挟まれた道をゆく私と命。
この道の先に私たちが通う私立桃ノ葉学園はある。
私、井上ほのかはこの四月に桃ノ葉学園に入学した、ピカピカの一年生だ。
A県A市にある私立桃ノ葉学園は、全校生徒千二百名のいわゆるマンモス校というやつで、“進学科”と“普通科”の二つの学科から成る。二つの学科の違いは……まあ……見たままだ。
つまり、進学科はエリートで、普通科はそれ以外ということ。私がどちらかというのは、先ほどの命との会話でも明らかだろうから、敢えて言わないでおく。
それにしても、私が“それ以外”なのは分相応だからいいとして、不思議なのは命も私と同じ普通科に入学したことだ。
中学の頃から常に学年トップの成績をキープし続けた命。
その聡明ぶりは学園に入学してまだ一月ほどしか経っていないというのに、すでにクラスの枠を飛び越えて、学年全体に広まっている。
外国人の名前のついた超難解な方程式だか公式を解けるとか……。
円周率を無限に言えるとか……。
とにかく色んな噂がある。
しかし、私がそんな話を命としてみたところで、どうせ頭が痛くなるだけなので、ついぞそういった話題を命としたことはない。
そういうわけで、命が進学科ではなく普通科に入学した理由も実のところ私は知らないのだ。
「いった!」
突然、後頭部を何者かに叩かれた。
朝っぱらからこんなことをするのは……。
「よう! おっはよー!」
「こら! バカ銀太! 痛いでしょ!」
朗らかな笑顔で現れた短髪の男子生徒に猛抗議する。
「ははは! ばーか! 石頭のお前を叩いた俺の手のほうがいてーよ!」
「な、なんですってー! キィー!」
「うわっ! 猿がいるぞ! 誰か捕獲しろー!」
この大バカ男は私の幼馴染でクラスメイトの神谷銀太。
こいつとは幼稚園、小学校、中学校、そして高校とすべて同じ学校に通い、同じクラスになった回数もすでに二桁の大台に乗ってしまっているという、腐れ縁ならぬ腐りきった縁で繋がれてしまっている。
「おい、猿。数学の小テストの勉強してきたか~?」
にやにやと笑いながら顔を覗きこんでくる銀太。
その表情は私が勉強していないのを明らかに確信している。
「や、やってない……」
「あー、よかった」
「え!? あんたもやってないの!?」
ちょっぴり嬉しくなる私。
「ううん。やったよ。いや……お前が事前に勉強するなんて衝撃の出来事があった日にゃあ、俺、ショック死しちゃうからさ……。命拾いしたなあ……って」
「な、なによー! 私だって定期試験の前だけはちゃんと勉強するもん!」
「だ、だけって……ほのか」
命が苦笑して言う。
「お前なあ、ほんと、そんなんじゃ高校の勉強に着いていけねえぞ? ……ねえ!? えーと……」
言い淀んだ銀太は少し困った表情で命を見ている。
「あ、白石です。白石命」
「ああ! そうそう! ごめんね! 俺、人の名前覚えるの苦手でさー!」
「ほんとに銀太は馬鹿なんだから! 命に失礼でしょ! いい加減覚えなさいよ!」
「あー、うるせー。猿うるせー」
(でも……)
心の中で呟き、ちらっと命の顔を盗み見る。
銀太の気持ちはわからないでもない。
抜群の聡明さで有名な命。
しかし、実際のところ命の存在感は希薄であると言わざるを得ない。


更新日:2010-10-03 21:00:14

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