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第三章

 鈍い茶色のガラスが嵌めこまれたドアが開き、上部に取りつけられたベルが軽やかな音を立てた。カウンターの中から店主が視線を向け、人影を認める。
「お帰り、守島くん。お疲れさま」
 守島咲耶は力なく右手を挙げてそれに答えた。流石に疲労の色が濃い。マスターの目の前の椅子に座ると、カウンターに上体を投げ出す。
「結構時間がかかったんだな。警察に行って来たのか?」
 マスターの問いに、首を振って否定する。
「そんな面倒なことやってる暇はないからね。多分、とっくに裏から手が回っててくれると思うし」
 自嘲気味に、唇を少し曲げる。この少年とは意外に長いつきあいの男は、賢明にもそれ以上言及するのを避けた。
 早朝。自室へと戻る時に、少しばかり不穏な空気を感じ取ってはいたのだ。
 そんな時間だというのに、大勢の人間のざわめきが聞こえる。奇妙な胸騒ぎを覚えて走り出した咲耶が目にしたのは、自分の部屋から幾筋もの煙が上がっている光景だった。
 彼は咄嗟に同行していた少年を連れ、その場を離れた。結果的に転がりこんでしまったマスターには申し訳ないと思うが、自分一人ならともかく、他人の安全を確保できる場所は他に思いつかなかったのだ。
 その後、咲耶は一人で外出した。しかし、警察と消防は部屋の主を捜している。厄介ごとを避けつつ被害状況を探ろうというのは、やたらと困難な仕事だった。
「弥栄は?」
「奥の部屋にいるよ。静かにしてるけど、少しでも休めているのかどうかは判らないな」
 その言葉に頷く。昨日から今朝にかけて経験したことを考えれば、少しばかり気が高ぶっていたとしても無理はない。
 咲耶が、壁の時計に視線を向けた。時刻は正午少し前。これから昼食を求めてサラリーマンが押し寄せてくるだろう。マスターの邪魔はしていられない。

更新日:2008-12-20 23:33:56

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