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 時代背景の次は舞台背景だ。ワシが生まれたのは九州本土から132km北方にある“国境の島”対馬。呼び名のとおり、わずか50kmほどで韓国に行くことができる。たしか泳いで渡った人がいたっけなぁ。島は南北に細長く伸びている。面積は約696k㎡。実は意外に広い。日本で6番目に大きい島。
 世界有数と言われるリアス式海岸は信じられないくらいに複雑に入りくんでいる。まっすぐに延ばすとなんと915kmもある。福岡から高速道路に乗って北陸の金沢くらいまで行ってしまう距離だから、いかに複雑かは推して知るべし。
険しい山地が多く、平地が少ない。なんと全体の89%が山地だ。平地が少ないと耕作地も少ないし、当然ながら点在する集落も狭いところばかり。島の大きさの割りには人口が少ない所以だ。全島でわずか3万5千人にも満たない。
 昔、島は一つだった。今では大船越、万関と呼ばれるところで分断されて3つになっているが、一般には万関を境に北を上島、南を下島と呼んでいる。万関を開削した理由は、日露戦争の頃に軍艦を移動させるためだったとか。要するに島を廻るよりは真ん中を突き抜ければ移動が早いというわけで、軍艦の幅にあわせて開削したらしい。だが今見るとそれほど広くはない。本当に軍艦が通るのだろうかと疑問に思うほどだ。日露戦争当時の万関瀬戸の幅はわずか25m、深さ3m。当時の連合艦隊旗艦の三笠を例にあげると幅23m、吃水13.2m。絶対に通れない。どうも実際にこの瀬戸を利用したのは水雷艇クラスだったようだ。
 動植物の生態系は極めて特異だ。大陸独自のものと、日本独自のもの、そして対馬独自のものが混在しているので、生物学者の先生方にはたまらない環境らしい。有名なのは動物ではツシマヤマネコ。大陸性のベンガルネコを先祖とする珍しい種類らしいが、絶滅の危機に瀕している。長年住んでいながらワシらも見たことない。植物ではヒトツバタゴ。別名ナンジャモンジャ。ふざけた名前だ。これも大陸性で、日本での自生地は極めて少ない。対馬では鰐浦というところが有名。5月の連休明けくらいに一斉に花をつけ、全山真っ白になるのは壮観だ。対馬の春を象徴する木だ。
 対馬は歴史学者をも喜ばせる。なにせ大陸に一番近いということで昔から日本史上の国際的な出来事には頻繁に登場する。中国の三国志の頃の「魏志倭人伝」にも登場するし、日本の最初の歴史書「古事記」や「日本書紀」にも登場する。663年の「白村江の戦い」の戦いの前後では日本の最前線の要塞となったし、鎌倉時代の「元寇」の時には最初に被害を受けた。豊臣秀吉の命による朝鮮出兵「文禄・慶長の役」でも最前線の基地となり、多くの将兵を大陸に送り出した。(ちなみにこの頃作られた清水山城は山そのものを城塞化したもので、その中腹にワシの母方の祖父母が住んでいた。子どもの頃はよく登って遊んだものだった。下から順に三の丸、二の丸、一の丸と上がっていく。建物は何もなく、石垣だけがその唯一の痕跡だが、当時は歴史的価値など知る由もなく、休憩するにはちょうどよい少し開けた場所くらいにしか思っていなかった。)日露戦争では対馬の沖合いであの有名な「日本海海戦」が繰り広げられた。(北部の方の海岸では砲撃の音が聞こえたらしい。)
 戦争ばかりやっていたわけではなく、貿易などで盛んに交流していた時期も長い。とにかく国際的なエピソードにはことかかないのだ。昔は外交の窓口だったわけだな。
 韓国とのつきあいはそれこそ古代から続いており、長い歴史の中で戦争と交易を繰り返してきたわけだが、ここ最近に至って「対馬は韓国領」と主張する韓国側の意見が出て来て物議を呼んでいる。無人島の所属を巡っての議論ならまだしも、先祖代々生活してきたワシらの島をここに至って急に韓国領なんて言われた日にはあきれてものが言えない。議論の必要性すら感じないナンセンスな話だ。国と国が親しく交わる時には、常識と良識で正装してお互い失礼のないようにしたいもんだ。
 町は島内に点在しているが、最も大きいのは島の南側にある厳原。福岡からの船が入る港がある。島内で唯一町という印象がある。他は正直、村という感じか。ワシが生まれたのは厳原の北側で、島の中央部に位置する美津島町。ここには空港がある。どの町も人は少なく静かなもんだ。ワシの子どもの頃には、未発達ではあったが人は多く賑やかな印象があったが、今では便利でこぎれいな町にはなったがそこに住む人は減る一方というのが現実だ。これといった産業もない島はこれから先どうなるのだろうか?

更新日:2010-04-28 19:40:57

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