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こ (近藤勇、他)

☆近藤勇(こんどう・いさみ)

新撰組局長として、有名な人ですね。
天保5年(1834年)10月9日生まれ。
旧暦なので、今でいうと11~12月頃の生まれですね。
蠍座~射手座あたりに、なるのかな?
謀殺に長けてたところは蠍座っぽいけど、誰とでもお友達になっちゃうところは射手座っぽいかな~。
新撰組副長の土方歳三より、2才年上でした。
出身は武州多摩郡上石原(東京都調布市)になります。
日野の土方さんの出身地に比べると、近藤さんの出身地は、あまり新撰組で盛り上がってません。
まあ…近藤勇という人物に興味を持って調べてみれば、人それぞれ評価の分かれるところだからでしょうか?
生家は上石原の豪農で、宮川久次郎の三男として生まれました。
幼名は勝五郎。後に勝太といいました。
「幕末日月抄」で、土方歳三に近藤勇のことを「勝っちゃん」と呼ばせているのは、この幼名から採っています。
嘉永元年(1849年)11月11日、15才で天然理心流剣術道場・試衛場に入門します。
一般には試衛館と云われていますが、「幕末日月抄」では敢えてマイナーな当時資料の「試衛場」とさせてもらっています。
そんな頃、宮川家に泥棒が入り、それに気付いた兄達が退治しようとしますが、勝太(勇)だけが
「押し入った時は、連中は気が立っているから手強い。
物を盗り尽くして逃げる時には気が緩むだろうから、その時に退治しよう」
と言い、冷静に泥棒を退治したという、有名なエピソードがありますね。
この事件で、天然理心流三代目近藤周斎に認められ、周斎の実家である島崎家の養子となり、島崎勝太となります。
その後、近藤家と正式に養子縁組して、近藤勇と名乗ります。
天然理心流の宗家は、代々養子を取って受け継がれてきましたので、この段階で、次期宗家の座は確実と目されていたんでしょうね~。
万延元年(1860年)に、26才で松井八十五郎の長女である松井つねと結婚。
近藤が美人は嫌だと言って、やっと娶った妻ですが、写真を見ると…つねさん不美人ではないですよね~…。
写真では判りませんが、唇に傷があったとか…。
それはともかく、妻のつねも、妾の美幸太夫も、近藤勇は女を見る目は一級品だったと思われます。
彼女達は、その心がけの好い女達ですよ。
翌年、文久元年(1861年)8月に、府中六所宮にて天然理心流四代目宗家襲名披露の野試合を行い、近藤勇は27才で流派一門の宗家を継ぎました。
また、文久2年(1862年)には、長女たま(瓊子)が誕生し、28才にして一児の父となりました。
そして文久3年。
29才の近藤勇は、浪士組に応募して、京都へと上っていきます。
その後の詳細は、「幕末日月抄」にて…。
波乱万丈のその生涯は、慶応4(1869年)年4月25日、平尾一里塚(東京都北区滝野川)にて、35才で閉じました。



☆小島鹿之助(こじま・しかのすけ)

武州多摩郡小野路村(東京都町田市)の名主であり、天然理心流小島道場の道場主です。
天保元年(1829年)生まれで、近藤勇より5才年上でした。
小島は嘉永元年(1848年)に、19才で天然理心流三代目近藤周助に入門します。
この小島と近藤勇と、土方歳三の義兄佐藤彦五郎の3人が、三国志の故事に倣い(桃園の契り)、義兄弟の契りを交わした事は有名です。
この義兄弟3人の中では、文政10年(1827年)生まれの佐藤彦五郎が、一番年長になりますから、彦五郎=劉備、鹿之助=関羽、勇=張飛、となるのでしょうか??
三国志ごっこに興じていた、3人の青年達の姿を思い浮かべると、おもしろいですね。
国難の時代でしたから、本気だったとは思いますが…。
ちなみに、小島と日野の佐藤彦五郎とは、親戚筋になります。
小島の姉は、小野路村の橋本道助の母親で、その橋本道助の妻が佐藤彦五郎の長女でした。
多摩の名主や豪農は、こうした婚姻による血縁関係で、結束を強めていました。
この小島鹿之助の家は、小島家23代当主により、鉄筋コンクリート造り2階建ての歴史資料館として、一般公開をされています。
「近藤勇の稽古着」や「沖田総司の年賀状」などが、展示されています。
有名な山南敬助の「折れた赤心沖光」の押し型も、ここで見ることができるそうです。
小島鹿之助の記録していた日記や、保管していてくれた資料から、私達は150年前の新撰組の姿を垣間見る事ができるのですね。

更新日:2010-06-19 12:02:31

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