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アイス・ブレイク

「……いい店だよな、ここ」

不意に。
隣の席の男性が煙草の火を消しながら、そう云った。
それが自分に向けられたものだと気付くのに、少しの時間を要して。
私が口を開いた時には、そのひとがこちらを向いて、微かに首を傾げていた。

「……初めて、なの」

バーに入るのも。
訊かれてもないのにそう付け加えて、私は再びグラスを弄ぶ。
そのひとが少しだけ目を丸くした。黙っていた時より、幼く、柔らかな面差し。

「マティーニが良いよ」
「……え?」

そう言ってマスターを呼ぶ。
意味がわからず呆けていた私とそのひとの前に並んだ、カクテルグラス。

「この店ならこれが良い」

呟いて。くしゃっとなった煙草をポケットから取り出し、また火を着ける。
細めた瞳が、また落ち着いた色に戻って。

そっと口をつける。
辛口のお酒は苦手。

だけど、今の私にはきっと似合ってる。

だから。

「…美味しい」

ひとりごとのように告げると、彼は笑った。悪戯っぽい瞳で。



     彼が悪かった訳じゃない。
     私が悪かった訳じゃない。

     綻びは僅かで、
     だけど解れた糸は止まらずに。

     婚約者と離れ、飲めないアルコールに逃げる自分。
     …なんて、去年の私が知ったらどれだけ驚くだろう。



それから――

週末には決まってここに来た。
お決まりの席とお決まりの注文。
紫煙に目を細めながら、彼はたくさん話をしてくれた。

学生時代の部活やアルバイト。
良く行くお店。
仕事の内容。

倒れた父のかわりに家業を継ぎに戻ってきた…なんてことまで。

グラスが空になって、
氷が溶けたら終わる。

そんな、不思議な時間だった。


……三ヶ月して。

彼は現れなくなった。
それでも私は、変わらずそこにいた。


そうしてやっと気が付いた。

――名前さえ聞いていなかった事に。



左手の薬指に感じてしまう違和感を忘れた頃。

カラン、とドアの開く音がして。

だけどもうそちらを見やる事もなく、空になったグラスを弄ぶ。

入って来たそのひとは、
私の隣に座って、あのお酒を頼んだ。

二人分。

「……私、知らなかった」
「……ん?」

あの悪戯な笑みの意味。

「ここのマスター、マティーニだけは下手なのね」

彼はまた目を丸くして、ひと呼吸置いて、噴き出した。

「やっと気付いたんだ?」



並んだグラス。
他愛もない会話。
重なる笑い声。

私達に必要なのはそれだけ。

……だけど、今夜は聞いてみようか。

まずは貴方の、名前から。

更新日:2010-03-15 23:10:24

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