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第壱ノ巻 川での再会
其ノ拾弐
天楽区の一族が音の国の城を訪れてからほどなくして、季節は緑陽の季の芽吹きを迎えた。水は温み、大地を覆う緑は青々として土とともに生きる百姓達には、陽の昇る前に起き、陽の沈む頃に一日の働きを終える生活が繰り返される中、天楽区の一族の登城のことなど、はるか遠い昔のできごとのように思われた。
彼等が唯一その思い出に浸るのは、仕事の手を休め、遠くに見える城の外壁を眺める時だけだった。
かつて、石に覆われていたはずのその堅固な外壁は、今ではすっぽりと城の見張り台付近までを緑が覆い、小鳥達が高く伸びた木々の枝に巣を作り、飛び回っているのが見える。
音の国は五層の砦から構成されており、砦の門は少しずつ角度を変えた位置に組まれ、全て内側からしか開かないようになっている。どの層にも巧妙に作られた物見の塔が設けられ、それに連なる砦の壁石を自然の大木が絡み合うようにして抱いていた。
遠くから見ると、まるで荒れ地の中にぽつりと取り残された深い森のように見える。遠方からの旅の者は、その森がひとつの国だとは気づかずに、音の国を探しながら、そのまま過ぎ去ってしまうことも珍しくなかった。
城は第四層の西の端に位置し、国の中心部にある天楽区は第三層の地面を基礎に第四層を通り越して、第五層まで突き抜けるような環状に生えた巨木がそのまま壁を作り、その内に在り続けている。
壁はもともと国が建造した石造りの壁だったのだが、壁の外側に植えられていた木の幹が成長するにつれ、壁ごと浮き上がって部分的に第五層付近まで持ちあげられた。
木々は石の重みを軽々と抱くように壁そのものを包み込み、一度も崩壊することなく自らの砦の内に宿る天楽区の一族と、その周囲の砦の内に暮らす国民達を見守り続けて来たのだ。
天楽区の内からは一筋の川が流れ出し、木々や民達の命を潤しながら第一層の外側に向かった後、国の外側を深く抉って流れていく。
高い砦、五層に分かれた高低差のある土地柄、そしてこの川の豊かな流れの恩恵を受け、作物は実り家畜達は外敵に襲われることもなく、のんびりと暮らしていた。
元はただの禿げ山でしかなかったこの土地に移り住んだ音の国の祖先達は、度重なる苦難の末に、地の利を生かした五層の砦を築きあげた。そして天楽区の一族が現れた後、堅固な石の砦はみるみるうちに緑に覆われ、命を生み出す豊かな森に国はまるごと抱かれた――。
天楽区の一族の登城によりその族長ミナと出会い、ノンノに再会してから、王子は今まで彼には伏せられて来た天楽区に関する知識を、少しずつ彼の師匠から学ぶようになっていた。
城の書庫をいくら探しても出て来なかった天楽区の一族に関する文献は、老師の部屋の中に隠されており――と言っても、師匠が文献探しと称して旅に出る毎に増え続けている、異国の娼館や男女混浴の湯浴み場で配られる、美女絵巻が山と積まれた下に無造作に置かれていただけなのだが――今もその文献を手に、王子は音の国が建国された当時の絵図面を眺め、図面の脇に詳細に記された覚え書きに目を通しているところだった。
「……普通なら、この種類の木があれほど大きくなるには、何千年も掛かるはずなのに、環状壁の巨木達は千年にも満たないうちにあそこまで……?」
「そうでショ? この国の真下、地下深くに水脈があると教えてくれたのも、天楽区の一族ですヨ。これだけ乾燥した地域の中で水が枯れずに今も湧き出ているのは、この辺りの土地の岩盤が固いために水の逃げ場がないからデス。 水脈はとても深くて人間の力では掘り切れまセンでしたから、彼等の水を呼ぶ力を借りて水脈を分岐させたという記録が、この文献に残っていマス」
積もりに積もった埃を派手に舞いあげながら、老師は王子の前に一冊の分厚い文献を開き、その一文を指し示した。
「――水脈を、分岐!?」
あの一族は、そんなことまで出来るのか……すごい――。
自然の力をそれほどまで操れるのなら、その力で自国を豊かにすることも、或いは……目障りな敵国を滅ぼすことも、可能なんじゃないのか……?
自然を友とし、人間には決して操れないものに語り掛け、呼び寄せる者。
それほどの力を手にすることが出来るのなら、危険を冒してこの国に潜入してでも攫いたくなるはずだ――。
いくつもの見えない視線が絡みつくようにこの国をじっと睨めつけるのを不意に感じて、王子の背筋にゾクリと悪寒が走った。
「……それほどの力を持つのなら、なぜ彼等は自分達で国を作ってそこで暮らさなかったんですか?」
「かつては、そうしていたこともあったようデス――あの戦争が起こる前までは」
其ノ拾弐
天楽区の一族が音の国の城を訪れてからほどなくして、季節は緑陽の季の芽吹きを迎えた。水は温み、大地を覆う緑は青々として土とともに生きる百姓達には、陽の昇る前に起き、陽の沈む頃に一日の働きを終える生活が繰り返される中、天楽区の一族の登城のことなど、はるか遠い昔のできごとのように思われた。
彼等が唯一その思い出に浸るのは、仕事の手を休め、遠くに見える城の外壁を眺める時だけだった。
かつて、石に覆われていたはずのその堅固な外壁は、今ではすっぽりと城の見張り台付近までを緑が覆い、小鳥達が高く伸びた木々の枝に巣を作り、飛び回っているのが見える。
音の国は五層の砦から構成されており、砦の門は少しずつ角度を変えた位置に組まれ、全て内側からしか開かないようになっている。どの層にも巧妙に作られた物見の塔が設けられ、それに連なる砦の壁石を自然の大木が絡み合うようにして抱いていた。
遠くから見ると、まるで荒れ地の中にぽつりと取り残された深い森のように見える。遠方からの旅の者は、その森がひとつの国だとは気づかずに、音の国を探しながら、そのまま過ぎ去ってしまうことも珍しくなかった。
城は第四層の西の端に位置し、国の中心部にある天楽区は第三層の地面を基礎に第四層を通り越して、第五層まで突き抜けるような環状に生えた巨木がそのまま壁を作り、その内に在り続けている。
壁はもともと国が建造した石造りの壁だったのだが、壁の外側に植えられていた木の幹が成長するにつれ、壁ごと浮き上がって部分的に第五層付近まで持ちあげられた。
木々は石の重みを軽々と抱くように壁そのものを包み込み、一度も崩壊することなく自らの砦の内に宿る天楽区の一族と、その周囲の砦の内に暮らす国民達を見守り続けて来たのだ。
天楽区の内からは一筋の川が流れ出し、木々や民達の命を潤しながら第一層の外側に向かった後、国の外側を深く抉って流れていく。
高い砦、五層に分かれた高低差のある土地柄、そしてこの川の豊かな流れの恩恵を受け、作物は実り家畜達は外敵に襲われることもなく、のんびりと暮らしていた。
元はただの禿げ山でしかなかったこの土地に移り住んだ音の国の祖先達は、度重なる苦難の末に、地の利を生かした五層の砦を築きあげた。そして天楽区の一族が現れた後、堅固な石の砦はみるみるうちに緑に覆われ、命を生み出す豊かな森に国はまるごと抱かれた――。
天楽区の一族の登城によりその族長ミナと出会い、ノンノに再会してから、王子は今まで彼には伏せられて来た天楽区に関する知識を、少しずつ彼の師匠から学ぶようになっていた。
城の書庫をいくら探しても出て来なかった天楽区の一族に関する文献は、老師の部屋の中に隠されており――と言っても、師匠が文献探しと称して旅に出る毎に増え続けている、異国の娼館や男女混浴の湯浴み場で配られる、美女絵巻が山と積まれた下に無造作に置かれていただけなのだが――今もその文献を手に、王子は音の国が建国された当時の絵図面を眺め、図面の脇に詳細に記された覚え書きに目を通しているところだった。
「……普通なら、この種類の木があれほど大きくなるには、何千年も掛かるはずなのに、環状壁の巨木達は千年にも満たないうちにあそこまで……?」
「そうでショ? この国の真下、地下深くに水脈があると教えてくれたのも、天楽区の一族ですヨ。これだけ乾燥した地域の中で水が枯れずに今も湧き出ているのは、この辺りの土地の岩盤が固いために水の逃げ場がないからデス。 水脈はとても深くて人間の力では掘り切れまセンでしたから、彼等の水を呼ぶ力を借りて水脈を分岐させたという記録が、この文献に残っていマス」
積もりに積もった埃を派手に舞いあげながら、老師は王子の前に一冊の分厚い文献を開き、その一文を指し示した。
「――水脈を、分岐!?」
あの一族は、そんなことまで出来るのか……すごい――。
自然の力をそれほどまで操れるのなら、その力で自国を豊かにすることも、或いは……目障りな敵国を滅ぼすことも、可能なんじゃないのか……?
自然を友とし、人間には決して操れないものに語り掛け、呼び寄せる者。
それほどの力を手にすることが出来るのなら、危険を冒してこの国に潜入してでも攫いたくなるはずだ――。
いくつもの見えない視線が絡みつくようにこの国をじっと睨めつけるのを不意に感じて、王子の背筋にゾクリと悪寒が走った。
「……それほどの力を持つのなら、なぜ彼等は自分達で国を作ってそこで暮らさなかったんですか?」
「かつては、そうしていたこともあったようデス――あの戦争が起こる前までは」
更新日:2011-01-06 14:27:50