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第六章
「絵里子さん、まだ起きていらっしゃる?」
さっきから、わさわさと落ち着かないでいた絵里子に、かなえは小声で囁いた。
「ええ、色々なことを考えてしまってね。全然眠れないのよ」
絵里子は周りを気にしながら言った。
いよいよ手術の前夜であった。
「少しお喋りをしてもいいかしら?小さな声でね」
「ええ、勿論よ」
このまま朝まで眠らずにかなえが喋っていてくれたなら、何も考えずに済むかもしれないと絵里子は思った。
「私は人一倍恵まれた生活をしてきたの。
子供の時から両親の愛を十分に受けて、貧乏もしたことはないし、教育も受けさせてもらったの。
理解のある夫と出会って、良い娘達も生まれたしね。
子供から手が離れてからは児童心理学を勉強して、自閉症の子供達と接して、
少しづつでもその子供達が良い兆候を示してくれるのを見てね、
大きな喜びと満足も経験できたの。
残念ながら、夫は二年前に亡くなって、それから私の健康もはかばかしくなくなってきたんだけれど、やっぱり夫の死がそのきっかけになっているのかも知れないわね。
それまでの私は何事も自分の思う通りに支障も無く人生を歩んできたのよ。
でもこの病気になってね、初めて恵まれていた自分に気がついたの。
そしてそれに感謝する気持ちが生まれたのよ。
もし病気にならなかったら気づかずじまいだったかも知れない。
だから私は何も思い残すことはないのよ。
今までの人生に感謝して死ねるんですものね。
夫も向こうで待っていてくれるし」
絵里子はかなえが羨ましかった。
自分のことを考えてみると、恵理子にはまだ悔いはたくさん有った。
一郎とは愛のある夫婦関係とは言えないし、悟志の将来も心配だった。
それにアメリカに留学中の長女の未亜とは蟠りがあった。
自分は今まで自分のしたいことをしてきただろうか?
毎日の生活に満足だっただろうか?
いいえ、不満だらけであった。
自分はいつも人のことを先に考えて、自分らしく生きていなかった。
自分に素直ではなかった。
そこに無理があった。
このままでは死ねない。
まだ死ねない。
絵里子は運命に反抗的になった。
「絵里子さん、あなたには良いご主人がいらっしゃるし、手術は大丈夫とお医者様も言っていらっしゃるのだから、決して死ぬなどとは思わずに頑張って生き抜いてちょうだいね」
かなえはそれを約束させようとするように絵里子の目を見つめた。
「かなえさん、そんなこと言わないで、あなただって死ぬなんて思わないで頑張ってちょうだい。またここに二人で帰って来ましょうよ」
「私はすっかり諦めたわけじゃないのよ。勿論できるなら生きたいわ。
でももし私がここへ帰って来なかったら、その時は絵里子さん、
私は幸せだったことをあなたに思い出して欲しいの」
かなえはサイドテーブルの引き出しを開けると折り鶴を摘み上げて
「ほら、これをあなたにあげるわ。娘達が折ってくれたのよ」
と絵里子の手に乗せた。
薄い桜色の花模様の和紙で折られた鶴は絵里子の掌の上でふっくら暖かく、生きた小さな鳥のようだった。
ほのかな良い香りがした。
「明日、手術台には持って行けないけれど、麻酔で意識が遠くなる時にね、この折り鶴を思い浮かべてちょうだい。
きっと手術中、あなたを守ってくれるわよ」
「まあ、でもこれ頂いちゃっていいの?、かなえさん。あなたのがなくなってしまうでしょう?」
かなえは引き出しからもう一つ取り出して、自分の掌に乗せると子供のように肩をすくめて笑った。
絵里子も笑い返さずにいられなかった。
手術の前夜に自分が笑っていられようとは思いもしないことだった。
やがて、かなえは心地良さそうに寝息を立て始めた。絵里子は気が楽になって、何時の間にか眠ってしまった。
さっきから、わさわさと落ち着かないでいた絵里子に、かなえは小声で囁いた。
「ええ、色々なことを考えてしまってね。全然眠れないのよ」
絵里子は周りを気にしながら言った。
いよいよ手術の前夜であった。
「少しお喋りをしてもいいかしら?小さな声でね」
「ええ、勿論よ」
このまま朝まで眠らずにかなえが喋っていてくれたなら、何も考えずに済むかもしれないと絵里子は思った。
「私は人一倍恵まれた生活をしてきたの。
子供の時から両親の愛を十分に受けて、貧乏もしたことはないし、教育も受けさせてもらったの。
理解のある夫と出会って、良い娘達も生まれたしね。
子供から手が離れてからは児童心理学を勉強して、自閉症の子供達と接して、
少しづつでもその子供達が良い兆候を示してくれるのを見てね、
大きな喜びと満足も経験できたの。
残念ながら、夫は二年前に亡くなって、それから私の健康もはかばかしくなくなってきたんだけれど、やっぱり夫の死がそのきっかけになっているのかも知れないわね。
それまでの私は何事も自分の思う通りに支障も無く人生を歩んできたのよ。
でもこの病気になってね、初めて恵まれていた自分に気がついたの。
そしてそれに感謝する気持ちが生まれたのよ。
もし病気にならなかったら気づかずじまいだったかも知れない。
だから私は何も思い残すことはないのよ。
今までの人生に感謝して死ねるんですものね。
夫も向こうで待っていてくれるし」
絵里子はかなえが羨ましかった。
自分のことを考えてみると、恵理子にはまだ悔いはたくさん有った。
一郎とは愛のある夫婦関係とは言えないし、悟志の将来も心配だった。
それにアメリカに留学中の長女の未亜とは蟠りがあった。
自分は今まで自分のしたいことをしてきただろうか?
毎日の生活に満足だっただろうか?
いいえ、不満だらけであった。
自分はいつも人のことを先に考えて、自分らしく生きていなかった。
自分に素直ではなかった。
そこに無理があった。
このままでは死ねない。
まだ死ねない。
絵里子は運命に反抗的になった。
「絵里子さん、あなたには良いご主人がいらっしゃるし、手術は大丈夫とお医者様も言っていらっしゃるのだから、決して死ぬなどとは思わずに頑張って生き抜いてちょうだいね」
かなえはそれを約束させようとするように絵里子の目を見つめた。
「かなえさん、そんなこと言わないで、あなただって死ぬなんて思わないで頑張ってちょうだい。またここに二人で帰って来ましょうよ」
「私はすっかり諦めたわけじゃないのよ。勿論できるなら生きたいわ。
でももし私がここへ帰って来なかったら、その時は絵里子さん、
私は幸せだったことをあなたに思い出して欲しいの」
かなえはサイドテーブルの引き出しを開けると折り鶴を摘み上げて
「ほら、これをあなたにあげるわ。娘達が折ってくれたのよ」
と絵里子の手に乗せた。
薄い桜色の花模様の和紙で折られた鶴は絵里子の掌の上でふっくら暖かく、生きた小さな鳥のようだった。
ほのかな良い香りがした。
「明日、手術台には持って行けないけれど、麻酔で意識が遠くなる時にね、この折り鶴を思い浮かべてちょうだい。
きっと手術中、あなたを守ってくれるわよ」
「まあ、でもこれ頂いちゃっていいの?、かなえさん。あなたのがなくなってしまうでしょう?」
かなえは引き出しからもう一つ取り出して、自分の掌に乗せると子供のように肩をすくめて笑った。
絵里子も笑い返さずにいられなかった。
手術の前夜に自分が笑っていられようとは思いもしないことだった。
やがて、かなえは心地良さそうに寝息を立て始めた。絵里子は気が楽になって、何時の間にか眠ってしまった。
更新日:2010-03-02 13:59:43