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第五章

ストレッチャーに乗せられて絵里子は病室へ帰ってきた。
腹部の動脈撮影をしてきたところだった。
この検査は腹部の動脈を調べるために腿の付け根の動脈を切って、そこから細い管を入れる。
なんと言っても動脈を切った分けだから、出血を懼れて二十四時間は絶対安静であった。

動かないようにとお腹に砂袋を乗せられる。
ただ口を開けて吸飲みで水を注ぎ込まれる。
小水も定期的に看護婦が導尿にくる。
されるままになっているより仕方がない。
人間の威厳などはどこかへ吹き飛んでしまう。

絵里子は病人の世界というものが有るのに気付き始めた。
健康な人間には全く理解できない世界である。
身動きの出来ない惨めさとじっと噛みしめるしかなかった。
やがて夕闇が世界を包み込むように降りてくるのを見つめながら、長い夜になりそうだと絵里子は観念した。

「お母さん」
その声に首をまわすと、息子の悟志が心配そうに見下ろしていた。
「まあ悟志、来てくれたの?」
絵里子はこんな時間に悟志が見舞いに来るとは思ってもいなかった。
「お母さん、大丈夫?」
「ええ、ただ動いてはいけないのよ。動脈を切ったものだから」
悟志は今年二十二歳になる絵里子の長男であった。
大学の帰りに来てくれたのだった。
顔型も絵里子に似ていれば性格も母親譲りの悟志は、おとなしく控えめで優しい子であった。

ちょうど夕食が運ばれてきた。
運んできた看護婦は手持ち無沙汰にベッドの横に立っている悟志を見ると抜け目なく言った。
「ご家族の方ですか?」
「ええ、息子です」
「それはちょうど良かった。お母さんはまだ動いてはいけないので、食事も寝たままなんですよ。私が食べさせてあげてもいいのだけれど、息子さんの方がいいんじゃないかしら?」
悟志か絵里子のどちらかが返事をしないものかと、二人の顔を交互に見た。
そして悟志が「はい」と答えると、さも忙しげに悟志の手にお盆を乗せて出て行った。

悟志は不器用にスプーンを持って絵里子の口へ食べ物を運んだ。
自分の息子に物を食べさせてもらうのは情けないものだった。
食べさせている悟志のほうも照れくさがっているようだった。
絵里子はますます食欲が無くなったと感じた。

「もう十分よ、悟志。ありがとう」
悟志はお盆をサイドテーブルの上に置くと、近くの椅子に腰を降ろした。
「お母さん、痛いところはないの?」
「いいえ、ただ動けないのが辛いだけよ」
悟志は絵里子の腕を撫で始めた。
ゆっくりと優しく撫でるその手の平を通して、絵里子に悟志の悲しみが伝わってきた。
「悟志、ごめんね心配かけて。ご飯などちゃんと食べている?」
「うん、今日はお昼にチャーハンと餃子を食べたんだ。だから母さんこそ僕のことなど心配する必要はないんだよ。ただ良くなることだけ考えていてね」

二人は同類であるために、お互いの気持ちが手に取るように解るのであった。
絵里子は一郎に向き合う時、一種のかまえが必要なのだが、悟志にはそれは全くいらなかった。
悟志が優しく腕を撫でていてくれる間、絵里子はうつらうつらと眠ったようだった。

「母さん、僕もう帰らなければならないよ。面会時間が終わるんだ」
悟志の囁く声で目をさました。
「そう、気をつけて帰るのよ。来てくれてありがとうね」
「うん、また来るよ。何も考えずに眠るんだよ」
悟志は来た時と同じようにそうっと出て行った。


更新日:2010-03-01 10:33:17

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