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第三章

病室のベッドで目覚めた絵里子は、夜が明けて行くのをぼんやりと窓から眺めていた。
三重にも四重にも重なった丹沢の山々は、はめ込まれた絵のようだった。
それが刻々と色を変えてゆく。
雲が沸き立って薄墨色から藍色に染まり、空が少しづつ明るくなってくる。
やがてその厚い雲を突いて、金色の光の矢が天から地上へと射すと、そこらじゅうがぱっと輝いた。
入院第一日目の朝であった。

そっと自分のおなかに手を当てると、確かにそこには不気味な硬い物が触れられた。
何故こんなことになってしまったのだろう。
もっと早く検査をしていたら、こんな目に合わなくても良かったのではないか。
かかりつけの医者は絵里子が不調を訴えたにもかかわらず一年も放っておいた。
「ただの神経だよ。奥さん、神経質でしょう?」
と言って胃炎の薬をくれただけだった。
最後には絵里子の方から病院での検査を申し出たのであった。
「検査をしても何も見つかりはしないよ。でもそれであなたの気が済むなら検査してもらったらいいでしょう」
その時もまるで絵里子が何でもないことに大騒ぎをしていると暗に含ませて、しぶしぶ紹介状を書いた。
その医者に対して絵里子は怒りを感じると共に、そんな無責任な医者を信頼していた自分を情けなく思う。

一郎はどうであろうか?
絵里子にもっと感心を持っていれていたなら、早いうちに念のため検査を受けろと言ったことであろう。
自分も愚かであった。
こんなに具合が悪くなるまで放っておくなんて。
そんなことを悔やんでも仕方のないことであった。

担当医は手術の前にまた幾つかの検査が有ると言っていた。
死ぬほどの思いで胃カメラを呑んだ絵里子は、これからの検査がもっと大変なのだろうかと恐れていた。
恐怖はじわじわと回りに立ち込めてきて、空間を作ってしまった。
そこから絵里子は出られずに閉じこもっていた。

だが、小鳥の囀りが聞こえ始めた。
がちゃがちゃと機械を押して廊下を通る音がした。
「お早う御座います」と看護婦の声もあちこちから聞えてきた。
急にまわりが騒々しくなった。

「お隣の方、起きていらっしゃいます?」
右隣りのベッドから声がかかった。
そちらに目を向けると、にこやかな女性の顔が、絵里子を見下ろしていた。
彼女は上体をベッドの背にもたせて、暫くの間絵里子の様子をうかがっていたようだった。

「私は秋本かなえと申します。お隣同士仲良くしましょう」
「私は高木絵里子です。どうぞよろしくお願いします」
「私が昨夜、遅くここへ移された時、あなたは寝ていらしたようなので、声を掛けなかったのよ」
昨夜は腸の検査に次いで入院のどたばたで絵里子は疲れて早く寝てしまったのであった。
「あなた、なんだかとても心配そうね。私も入院初日はそうだったのよ。
でも人間なんにでも慣れるものだわ。段々に病人でいる状態に慣れてくるのよ。
お医者様や看護婦さんに任せるしかないといる諦めができてくるのね。
自分の体であっても自分ではどうにもできないのですもの、しかたがないわ」

絵里子はかなえから目をそらすと顔を曇らせた。
「私は手術も怖いし、死ぬかも知れないという不安で一杯なんです。
そして、なんでこんなことになってしまったのだろうって、誰かのせいにできないこのかと考えていたんです」
今会ったばかりのかなえに自分の心を隠さずに話している自分に絵里子は驚いた。
かなえの声は穏やかで、旧知の人のようなしたしみを感じさせたから、多分そのせいだったろう。
「ベッドに横になって、天井ばかり見ているとね、色々なことが頭に浮かんでくるのよ。
他人を責めたり、自分を責めたりして、そして結局はこの状態を受け入れなければならないと、自分に納得させるのだわ。
それも手術に立ち向かうための心の準備じゃないかと思うの」
さすがにかなえはもう既に一週間を病院で過ごしただけあって、絵里子の大先輩であった。

「それであなたの手術はいつなの?」
「六月二十五日。あと一週間なんです」
「あら、それじゃあ私と同じ日だわ」

おかしなもので、手術日が一緒ということが絵里子には心強く感じられる。
手術という大きな課題をかかえている人間にとって、その困難な道を歩いて行くのは自分一人ではないという思いは、大きな励ましになるものであった。

更新日:2010-02-26 12:49:44

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