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第二章

梅雨の合間に、顔を出した青空の下、燃え立つような若い緑が車窓を過ぎて行く。
久しぶりの夫との外出先が病院であり、医者から聞かされる話は鬱々としたものと解りきっているこの状況と、窓の外の風景は全く不釣合いであった。
この前一郎と二人で出掛けたのは一体何時のことだろうと、絵里子はつり革につかまりながら思い出そうとした。
一郎は何を考えているのか、何も絵里子に話しかけてくれない。
無表情な横顔をそっと見て、絵里子は惨めで悲しかった。
結局、病院に着くまで、二人は何も話さなかった。

絵里子の担当医は、丸顔で眼鏡をかけた、中肉中背の四十代の男だった。
医者にしては抑揚の有りすぎる話し方と、 眼鏡の奥の済んだ瞳が人の良さを感じさせた。
彼は二人を自分の机の前に座らせると、レントゲンを見せながら、棒で影の部分を指した。

「ここに潰瘍ができています。ご覧のとおりかなり大きなものですので、このままにしておきますと食道を塞いでしまって、物が食べられなくなってしまいます。
ですから手術して取るしかないでしょう。
手術で潰瘍を切り取るわけですが、切り取った後、細い食道と胃の残り部分を繋げるのは無理なので、全胃摘出ということになります」
と紙に図を描きながら説明した。

ゼンイテキシュツとは一体なんであろう。
絵里子にはすぐには何のことか解らなかった。
この医者は人の良さからつい同情を見せてしまって、それが患者を不安にさせるのだなとまるで他人ごとのように聞いていた。
二、三秒後にやっとその意味が解ったが、自分の胃が全部無くなってしまうなどとは、現実として受け入れられなかった。
何かとてつもないことであり、恐ろしいという気持ちさえ沸いてこないのであった。

「それで入院はいつになりますか?」
一郎はせっかちに聞いた。
「早い方が良いでしょう。帰りに入院の手続きをしていって下さい」
夫と医者の間で、自分をのけ者にして、大事な事が決められていってしまうので、絵里子は慌てた。
どちらかが手術以外の方法を提案してくれないかと二人の顔を交互に見た。
だか一郎は
「解りました。では先生どうぞよろしくお願いします」
と言うと、もう椅子を立ち上がっていた。
絵里子は戸惑ったが、医者に会釈をすると夫について部屋を出るしかなかった。

病院の長い廊下を夫の後を追いながら、焦りと悔しさが混じって涙が出てきた。

「待って下さい、あなた。手術をしなくても良い方法があるんではないですか?
そんなに簡単に決めないで下さい。私の意見も聞いて下さい」
つい声が大きくなったので、周りから幾つかの視線が集まった。
「手術の他に道はないのだよ。放って置いたら物が食べられなくなると先生がおっしゃっただろう。しかたがないじゃないか」

一郎は絵里子を待合の長椅子に座らせると、入院の手続きをしに行った。
絵里子は身動きもせずに考えていた。
一体、胃を全部取ってしまっても、人間は生きられるものなのだろうか? 
手術は失敗して自分は死ぬかも知れない。
絵里子の頭は恐怖で一杯になってしまった。

一郎は戻って来ると、青い顔をして一点を見つめている絵里子を痛々しく見つめた。
「手術をして良くなるんだ。大丈夫だよ」

絵里子は一郎の声の中に優しさを聞き取った。

更新日:2010-02-25 09:35:16

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