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第一章
夕暮れの湿った空気を、密やかに風が動かした。
青い薄闇に包まれた一本の白い月見草が、その動いた空気の中で息づいたようだった。
誰も気付かぬうちに芽を出し、満月の光を浴びて、花びらを一杯に広げたのであった。
絵里子が、たまたま涼みに庭へ出て来たから、人の目に留まったものの、
そうでなかったら誰にも見られずに、翌朝には、暑い陽差しの中で枯れてしまう運命だった。
絵里子はそっと近づくと花弁に触れてみた。
ひんやりと冷たさが指に伝わった。
孤独に耐えて、だが命一杯に咲いているその健気さに、絵里子は涙を浮ばせた。
“あなたも淋しいのね”
大きく一息つくと絵里子は決心して家の中へ入って行った。
居間では夫の一郎が、テレビを見ながらゴルフクラブの手入れをしていた。
絵里子が入ってきても、彼女の方へは目も向けない。
隣に座ってお茶を入れながら、少しも自分に注意を向けてくれない夫に話しかけるのは、
努力が必要だった。
「あなた」と呼びかけて間を置くと、やっと一郎は横目で絵里子を見上げた。
「今日私、病院へ行って来ました。
胃の検査を受けてきたのですが、思っていたよりひどいのです。
大きな潰瘍ができていて、手術の可能性が大きいということです。
今度あなたにも一緒に来てもらうようにと、お医者様がおっしゃいました」
そこまで絵里子は一息に言った。
一郎はクラブを磨く手を止めた。
「潰瘍だって? それ本当なのか?」
頷いた絵里子を疑わしそうに見ながら
「潰瘍ができるまでには何か症状が有ったはずだよ。
痛みだとか不快感だとか、たった一日で潰瘍ができるはずはない」
絵里子の胃は、ゴロッとした大きな石にでも変わってしまったように重かった。
食べ物は時として下へ降りて行かず、胸のところでつっかえてしまった。
背中も凝って痛かった。
それらの症状を、絵里子は何度か一郎に訴えていた。
だが一郎はたいした感心を示さなかった。
それどころか、そんなことは全く忘れてしまっているようだった。
絵里子は出かかった言葉を押さえて俯いた。
「本当にそんなに悪いのかね?」
一郎は、きっと面倒なことだと思っているに違いなかった。
「次の木曜日に予約が取ってあるのですけど、会社を休んでいただけますか?」
「この忙しい時にしかたがないな」
不機嫌な声だった。
一郎の世界は仕事とゴルフとその関係上の人々で成り立っている。
絵里子は彼の妻でありながら、その世界からは除外されているのだった。
一郎はゴルフのクラブをかたずけると
「俺はもう寝るからな」
と言い捨てて寝室へはいってしまった。
一人そこに残された絵里子は、冷めた茶碗を両手で握りながらじっと座っていた。
“私はまるであの白い月見草だ。
一人ぼっちで淋しく咲いているのだ”
一郎は絶対にあの白い花に気付くことはないだろう。
“でもいいわ、空の月だけは一生懸命咲いているのを見ていてくれるのだから”
だがその思いは絵里子をあまり慰めてはくれなかった。
やり場のない諦めが彼女の心の中に広がると、寒気を感じて身震いした。
青い薄闇に包まれた一本の白い月見草が、その動いた空気の中で息づいたようだった。
誰も気付かぬうちに芽を出し、満月の光を浴びて、花びらを一杯に広げたのであった。
絵里子が、たまたま涼みに庭へ出て来たから、人の目に留まったものの、
そうでなかったら誰にも見られずに、翌朝には、暑い陽差しの中で枯れてしまう運命だった。
絵里子はそっと近づくと花弁に触れてみた。
ひんやりと冷たさが指に伝わった。
孤独に耐えて、だが命一杯に咲いているその健気さに、絵里子は涙を浮ばせた。
“あなたも淋しいのね”
大きく一息つくと絵里子は決心して家の中へ入って行った。
居間では夫の一郎が、テレビを見ながらゴルフクラブの手入れをしていた。
絵里子が入ってきても、彼女の方へは目も向けない。
隣に座ってお茶を入れながら、少しも自分に注意を向けてくれない夫に話しかけるのは、
努力が必要だった。
「あなた」と呼びかけて間を置くと、やっと一郎は横目で絵里子を見上げた。
「今日私、病院へ行って来ました。
胃の検査を受けてきたのですが、思っていたよりひどいのです。
大きな潰瘍ができていて、手術の可能性が大きいということです。
今度あなたにも一緒に来てもらうようにと、お医者様がおっしゃいました」
そこまで絵里子は一息に言った。
一郎はクラブを磨く手を止めた。
「潰瘍だって? それ本当なのか?」
頷いた絵里子を疑わしそうに見ながら
「潰瘍ができるまでには何か症状が有ったはずだよ。
痛みだとか不快感だとか、たった一日で潰瘍ができるはずはない」
絵里子の胃は、ゴロッとした大きな石にでも変わってしまったように重かった。
食べ物は時として下へ降りて行かず、胸のところでつっかえてしまった。
背中も凝って痛かった。
それらの症状を、絵里子は何度か一郎に訴えていた。
だが一郎はたいした感心を示さなかった。
それどころか、そんなことは全く忘れてしまっているようだった。
絵里子は出かかった言葉を押さえて俯いた。
「本当にそんなに悪いのかね?」
一郎は、きっと面倒なことだと思っているに違いなかった。
「次の木曜日に予約が取ってあるのですけど、会社を休んでいただけますか?」
「この忙しい時にしかたがないな」
不機嫌な声だった。
一郎の世界は仕事とゴルフとその関係上の人々で成り立っている。
絵里子は彼の妻でありながら、その世界からは除外されているのだった。
一郎はゴルフのクラブをかたずけると
「俺はもう寝るからな」
と言い捨てて寝室へはいってしまった。
一人そこに残された絵里子は、冷めた茶碗を両手で握りながらじっと座っていた。
“私はまるであの白い月見草だ。
一人ぼっちで淋しく咲いているのだ”
一郎は絶対にあの白い花に気付くことはないだろう。
“でもいいわ、空の月だけは一生懸命咲いているのを見ていてくれるのだから”
だがその思いは絵里子をあまり慰めてはくれなかった。
やり場のない諦めが彼女の心の中に広がると、寒気を感じて身震いした。
更新日:2010-02-24 15:00:36