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第八章
手術後の経過は順調で絵里子は意外に早い退院に心がはずんだ。
手術で悪い所を取り去ったのと、輸血のせいか気分も良く、これからまた健康に戻れるのだという希望が見えていた。
まだ退院日の決まっていないかなえは「家に帰ったらすぐに絵里子さんに連絡するわ」と約束した。
退院の日は一郎が迎えに来てくれた。
久しぶりに血色の好い妻を見た一郎はふっと柔らかな視線を向けた。
病院の建物から出て、二人は芝生に置かれたベンチに座った。
話があると言ったくせに一郎は暫く黙って言いあぐねている様子だった、が、おもむろに口を開いた。
「絵里子、よく聞いてくれ。これから大事なことを言うからな。
実はお前の胃に出来ていたのは潰瘍ではなくて癌だったんだ」
言ってしまってから一郎は絵里子を見ていられなくなり目を逸らした。
医者は癌であることを最初から一郎に告げていた。
一郎はとにかく手術が終わるまでは絵里子には話さないでくれと医者に頼んだのだ。
癌宣告は死の宣告と言っても言い過ぎではない。
大手術に臨むには生きる希望が無ければ乗り切れないと一郎は思ったからだ。
そして、手術は成功した。
成功したものの、これからの毎日には、絵里子自身にとっても家族にとっても、覚悟が必要だった。
相手が何なのかを、はっきりと掴んで取り組まなければ克服できない。
癌とはそんな大変な病気なのである。
手術で悪い所は取り去られ、これから頑張って元気になろうとしている妻に、このことを告げるのは一郎には容易いことではなかった。
だが、一度家へ戻って、元の生活に入ってしまったら、言う機を失くしてしまうことを一郎は知っていたのだ。
一郎は絵里子の方を見ることができずに真正面を向いたままだった。
その横顔はまるで、いたずらを見つけられた子供が叱られるのを待っているようだと絵里子は思った。
いつも忙しい夫がちょくちょく見舞いに来てくれたり、娘がアメリカから帰って来たり、普段付き合いの無い親戚が見舞いに来たりで、おかしいと絵里子は思っていた。
混んでいるというのに入院も早かったし、もし潰瘍だったら、胃を全部取ってしまうなどはしないだろうと、うすうす気が付いていたのだった。
外へ出たのは二週間ぶりであった。
体を包む太陽の暖かさ、柔らかな緑の芝生、鳥の声。
それらは優しく絵里子を撫でてくれていた。
風が絵里子の頬をくすぐり、耳元で囁いた。
‘久しぶりだね’
それは地球の息遣いだと絵里子は思った。
“そして私は、地球と一緒に息をしているではないか。
この息が続くまで精一杯に生きてゆこう”
「あなた話して下さってありがとう。私は何となく解っていたのよ。だから心配しないで」
一郎は我慢できずに詰まったような声を上げて泣いた。
そしてそれを止めようとぶるぶると震えた。
絵里子は一郎の背に手を当て、思いのほか穏やかな自分を見つめていた。
手術で悪い所を取り去ったのと、輸血のせいか気分も良く、これからまた健康に戻れるのだという希望が見えていた。
まだ退院日の決まっていないかなえは「家に帰ったらすぐに絵里子さんに連絡するわ」と約束した。
退院の日は一郎が迎えに来てくれた。
久しぶりに血色の好い妻を見た一郎はふっと柔らかな視線を向けた。
病院の建物から出て、二人は芝生に置かれたベンチに座った。
話があると言ったくせに一郎は暫く黙って言いあぐねている様子だった、が、おもむろに口を開いた。
「絵里子、よく聞いてくれ。これから大事なことを言うからな。
実はお前の胃に出来ていたのは潰瘍ではなくて癌だったんだ」
言ってしまってから一郎は絵里子を見ていられなくなり目を逸らした。
医者は癌であることを最初から一郎に告げていた。
一郎はとにかく手術が終わるまでは絵里子には話さないでくれと医者に頼んだのだ。
癌宣告は死の宣告と言っても言い過ぎではない。
大手術に臨むには生きる希望が無ければ乗り切れないと一郎は思ったからだ。
そして、手術は成功した。
成功したものの、これからの毎日には、絵里子自身にとっても家族にとっても、覚悟が必要だった。
相手が何なのかを、はっきりと掴んで取り組まなければ克服できない。
癌とはそんな大変な病気なのである。
手術で悪い所は取り去られ、これから頑張って元気になろうとしている妻に、このことを告げるのは一郎には容易いことではなかった。
だが、一度家へ戻って、元の生活に入ってしまったら、言う機を失くしてしまうことを一郎は知っていたのだ。
一郎は絵里子の方を見ることができずに真正面を向いたままだった。
その横顔はまるで、いたずらを見つけられた子供が叱られるのを待っているようだと絵里子は思った。
いつも忙しい夫がちょくちょく見舞いに来てくれたり、娘がアメリカから帰って来たり、普段付き合いの無い親戚が見舞いに来たりで、おかしいと絵里子は思っていた。
混んでいるというのに入院も早かったし、もし潰瘍だったら、胃を全部取ってしまうなどはしないだろうと、うすうす気が付いていたのだった。
外へ出たのは二週間ぶりであった。
体を包む太陽の暖かさ、柔らかな緑の芝生、鳥の声。
それらは優しく絵里子を撫でてくれていた。
風が絵里子の頬をくすぐり、耳元で囁いた。
‘久しぶりだね’
それは地球の息遣いだと絵里子は思った。
“そして私は、地球と一緒に息をしているではないか。
この息が続くまで精一杯に生きてゆこう”
「あなた話して下さってありがとう。私は何となく解っていたのよ。だから心配しないで」
一郎は我慢できずに詰まったような声を上げて泣いた。
そしてそれを止めようとぶるぶると震えた。
絵里子は一郎の背に手を当て、思いのほか穏やかな自分を見つめていた。
更新日:2010-03-05 10:03:41