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第七章
“ああ、熱い”
まるで火事のようだった。
赤い炎は絵里子の閉じた瞼の中にまで入り込んできていた。
やっとの思いで重たい瞼を開けると、夕焼けの雲が窓ガラスに照り映えているのだった。
“ああ良かった。火事ではなかった”と安心すると、瞼を持ち上げていられなくなり、又、目を閉じた。
すると再び赤い炎は瞼の裏側一杯に広がった。
その中に、緑とも黒ともつかないもやもやした物が蠢きだして、その動く速度は見る間に速くなり、赤い鳥に変わった。
双方の翼を悪魔の爪のように広げて飛び回り、空間をさっと横切ってはするどい嘴で絵里子の顔や体をかすめ、威嚇し、壁にぶつかりそうになると方向転換して再び襲ってきた。
「ああっ」と思わず恐怖の声を上げると、その声で目覚めた。
絵里子は、はあはあと肩で息をして、自分を落ち着かせた。
だが、まだその鳥がどこかに隠れているのではないかと部屋を見回すと、奥の暗い襖の向こうから、じっと何かに見つめられている気がした。
枕元の机に目を移したとき、“ああ、これだったのか”と絵里子は思った。
昨日、部屋が淋しいからと言って、母が飾ってくれた、花瓶にさされたアマリリスが、
緑の太い茎の上に二つ花を両方に開き、それがちょうど鳥が両の翼を広げた格好に見えたのだ。
幼い熱にうだった頭には、その真紅の花がなまなましすぎた。
もし目を閉じたら瞬間に、アマリリスはまた鳥に変わり、襲ってくるだろうとの思いで、絵里子は一刻も花から目を離すことが出来なくなってしまった。
カチッカチッと楔を打ち込むような時計の音は部屋に響き渡り、絵里子の恐怖を募らせた。
“なるべくじっとしていよう。そうすればあれは私を放っておいてくれるかもしれない”
唾を飲み込むのさえ音を立てないようにしながら、絵里子は夜が明けるのを待った。
やがて白々と明けてゆく部屋の中で、恐怖も薄らいでいった。
母が部屋へ入ってくると、絵里子に目をやるより早く、咲ききったアマリリスを見て、
「まあ、開いたのね。昨日はまだ蕾だったのに」と嬉しそうに言った。
「母さん、その花どけてちょうだい」
「あらどうして?こんなに綺麗なのに」
「これは夜になると、赤い鳥になって私を襲ってくるのよ。
目を離すと負けてしまうから、私はずっと見張っていなければならなかったの」
絵里子は気弱になって声が震えた。
母はきつい顔に変わり、しかたなしに花瓶を外へ持って出て行った。
だが再び部屋に戻って来た時には思い返したように優しかった。
「そう、可哀想に眠れなかったのかい?一寸呼んで母さんを起こせばよかったのにね。
そばに一緒に居て上げたのに」
だが絵里子は母が居てもどうにもならなかっただろうと思った。
「母さんが居てもだめ。赤い鳥とは私が戦わなければならないの」
瞬間、絡み合った母と娘の二本の感情の糸がピンと張りつめた。
母は不機嫌になって黙って雨戸を強く開け始めた。
埋もれていた母の思い出が、何故麻酔をかけられた絵里子の頭の中に、ふっと湧いて出て来たのは解らない。
僅か三、四歳の時のことであろうか。
それは絵里子が物心ついて初めての母との葛藤であった。
絵里子は幼い時から、自分が真剣に生きている部分に、母が無遠慮に踏み込んでくることを恐れていた。
自分を母とをはっきりと区別していた。
そんな絵里子の中に母はどうしても踏み込めないものを感じていた。
それが絵里子と母の在り方だった。
母は、彼女の面倒を一生見ることを条件に一郎に絵里子との結婚を許した。
それ以来、三年前に亡くなるまで、ずっと同居していた。
母は弱い人間だったと絵里子は思う。
自分の生きる足場がしっかりしていないので、いつも誰かの人生の土俵の中に生きていた。絵里子が生まれてからは絵里子がその的となった。
愛情が恨み、妬みに変わってしまうような、気性の激しい母は、時として絵里子が自然に母の愛を求める時に理由もなく突き放した。
絵里子は傷つかないようにと自分を守るために、自分の周りに壁を築き上げた。
その中で自分の生きる拠り所となるかけがえのない一郭を守ってきた。
その壁は高くなり過ぎて、母以外の人も踏み込めなくなった。
母とのいがみ合いは家の中を冷え冷えとさせた。
一郎は家に近寄らなくなり、子供達は無口で陰気になった。
せめぎ合いの日々は絵里子を困憊させ、体と心を蝕んだ。
自分の人生を惨めな味気ないものにしたのは母だと絵里子は恨んでいた。
その恨みが体の中に巣食って、悪い物を作り出したのだなと絵里子は今解ったのであった。
だが、麻酔が覚める段階でその夢は除々に薄らいで行き、病室のベッドで目覚めた時には絵里子の記憶には全く残ってはいなかった。
(この章の絵里子の昔の夢の部分は、私の母行子の短編 『私のメルヘン』 からの抜粋)
まるで火事のようだった。
赤い炎は絵里子の閉じた瞼の中にまで入り込んできていた。
やっとの思いで重たい瞼を開けると、夕焼けの雲が窓ガラスに照り映えているのだった。
“ああ良かった。火事ではなかった”と安心すると、瞼を持ち上げていられなくなり、又、目を閉じた。
すると再び赤い炎は瞼の裏側一杯に広がった。
その中に、緑とも黒ともつかないもやもやした物が蠢きだして、その動く速度は見る間に速くなり、赤い鳥に変わった。
双方の翼を悪魔の爪のように広げて飛び回り、空間をさっと横切ってはするどい嘴で絵里子の顔や体をかすめ、威嚇し、壁にぶつかりそうになると方向転換して再び襲ってきた。
「ああっ」と思わず恐怖の声を上げると、その声で目覚めた。
絵里子は、はあはあと肩で息をして、自分を落ち着かせた。
だが、まだその鳥がどこかに隠れているのではないかと部屋を見回すと、奥の暗い襖の向こうから、じっと何かに見つめられている気がした。
枕元の机に目を移したとき、“ああ、これだったのか”と絵里子は思った。
昨日、部屋が淋しいからと言って、母が飾ってくれた、花瓶にさされたアマリリスが、
緑の太い茎の上に二つ花を両方に開き、それがちょうど鳥が両の翼を広げた格好に見えたのだ。
幼い熱にうだった頭には、その真紅の花がなまなましすぎた。
もし目を閉じたら瞬間に、アマリリスはまた鳥に変わり、襲ってくるだろうとの思いで、絵里子は一刻も花から目を離すことが出来なくなってしまった。
カチッカチッと楔を打ち込むような時計の音は部屋に響き渡り、絵里子の恐怖を募らせた。
“なるべくじっとしていよう。そうすればあれは私を放っておいてくれるかもしれない”
唾を飲み込むのさえ音を立てないようにしながら、絵里子は夜が明けるのを待った。
やがて白々と明けてゆく部屋の中で、恐怖も薄らいでいった。
母が部屋へ入ってくると、絵里子に目をやるより早く、咲ききったアマリリスを見て、
「まあ、開いたのね。昨日はまだ蕾だったのに」と嬉しそうに言った。
「母さん、その花どけてちょうだい」
「あらどうして?こんなに綺麗なのに」
「これは夜になると、赤い鳥になって私を襲ってくるのよ。
目を離すと負けてしまうから、私はずっと見張っていなければならなかったの」
絵里子は気弱になって声が震えた。
母はきつい顔に変わり、しかたなしに花瓶を外へ持って出て行った。
だが再び部屋に戻って来た時には思い返したように優しかった。
「そう、可哀想に眠れなかったのかい?一寸呼んで母さんを起こせばよかったのにね。
そばに一緒に居て上げたのに」
だが絵里子は母が居てもどうにもならなかっただろうと思った。
「母さんが居てもだめ。赤い鳥とは私が戦わなければならないの」
瞬間、絡み合った母と娘の二本の感情の糸がピンと張りつめた。
母は不機嫌になって黙って雨戸を強く開け始めた。
埋もれていた母の思い出が、何故麻酔をかけられた絵里子の頭の中に、ふっと湧いて出て来たのは解らない。
僅か三、四歳の時のことであろうか。
それは絵里子が物心ついて初めての母との葛藤であった。
絵里子は幼い時から、自分が真剣に生きている部分に、母が無遠慮に踏み込んでくることを恐れていた。
自分を母とをはっきりと区別していた。
そんな絵里子の中に母はどうしても踏み込めないものを感じていた。
それが絵里子と母の在り方だった。
母は、彼女の面倒を一生見ることを条件に一郎に絵里子との結婚を許した。
それ以来、三年前に亡くなるまで、ずっと同居していた。
母は弱い人間だったと絵里子は思う。
自分の生きる足場がしっかりしていないので、いつも誰かの人生の土俵の中に生きていた。絵里子が生まれてからは絵里子がその的となった。
愛情が恨み、妬みに変わってしまうような、気性の激しい母は、時として絵里子が自然に母の愛を求める時に理由もなく突き放した。
絵里子は傷つかないようにと自分を守るために、自分の周りに壁を築き上げた。
その中で自分の生きる拠り所となるかけがえのない一郭を守ってきた。
その壁は高くなり過ぎて、母以外の人も踏み込めなくなった。
母とのいがみ合いは家の中を冷え冷えとさせた。
一郎は家に近寄らなくなり、子供達は無口で陰気になった。
せめぎ合いの日々は絵里子を困憊させ、体と心を蝕んだ。
自分の人生を惨めな味気ないものにしたのは母だと絵里子は恨んでいた。
その恨みが体の中に巣食って、悪い物を作り出したのだなと絵里子は今解ったのであった。
だが、麻酔が覚める段階でその夢は除々に薄らいで行き、病室のベッドで目覚めた時には絵里子の記憶には全く残ってはいなかった。
(この章の絵里子の昔の夢の部分は、私の母行子の短編 『私のメルヘン』 からの抜粋)
更新日:2010-03-04 10:22:01