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18.再会

 うっとおしい梅雨の季節になった。
 美濃の合戦の後、生駒八右衛門を通して、蜂須賀小六に上総介の家臣にならないかとの声が掛かった。しかし、小六は、「まだまだ、縛られたくはねえからの」と言って、いい返事はしなかった。
 小六はうなづかなかったが、弟分の前野小太郎が上総介に仕える事に決まり、清須の城下に移って行った。
 前野家は代々、岩倉の織田伊勢守に仕え、父の小次郎も伊勢守の重臣の一人だった。ところが、伊勢守家で親子の争いが始まり、子の左兵衛(さひょうえ)が政権を奪うと父親派だった小次郎はさっさと隠退してしまった。小太郎の兄、孫九郎は母親の実家である小坂家を継ぎ、上総介の家臣として春日井の代官になっており、小太郎が前野家の跡を継がなければならなかった。一家の当主になって、いつまでも野武士でいるわけにもいかず、上総介に仕える事になった。
 美濃の負け戦の後、上総介は忙しかった。
 五月の末、上総介の重臣である林佐渡守が弟の美作守(みまさかのかみ)と那古野城内で、上総介の暗殺をたくらんだ。結果は失敗に終わったが、その事件を引き金として弟の勘十郎は上総介の直轄領を横領し、上総介に叛旗(はんき)をひるがえした。林兄弟を初め、柴田権六(ごんろく)(勝家)、平手五郎右衛門、丹羽(にわ)勘助(氏勝)らが勘十郎の味方をして清須城を窺っていた。
 上総介は見て見ぬ振りをして、再び、城下の再建に力を入れ、七月の盂蘭盆会(うらぼんえ)には盛大な盆踊りを催した。華やかな山車(だし)を作らせ、家臣たちに派手な仮装をさせ、自らは天女に扮して清須から津島まで練り歩いた。近在の民衆も喜んで参加し、噂を聞いて、遠くからも見物人が続々と集まって来た。戦に明け暮れる毎日で、すさんでいた人々の心は解放され、いやな事など皆忘れて盆踊りに熱中した。
 敵に囲まれ、窮地に陥っている今、上総介自身がすべてを忘れて踊り狂いたい心境だったのは確かだが、ただ、それだけではなかった。この馬鹿騒ぎを思いついたのは津島の商人たちを味方につけるのが本当の目的だった。
 以前、父親が勝幡(しょばた)城にいた頃、津島とのつながりは親密だったが、父親が亡くなり、本拠地が清須に移ってからは疎遠になっていた。尾張を平定するには財力のある商人と手を結ばなくては不可能だ、と判断した上総介は津島の商人と手を結ぶために、派手な張行を思い立ったのだった。それは上総介自身が考え出した、上総介独自の奇抜なやり方だった。
 上総介の思惑はうまく行き、津島の商人の心をつかむ事に成功した。そればかりでなく、上総介の名は身近な領主として、民衆たちに親しみを込めて覚えられた。
 藤吉郎も三輪弥助と一緒に見物に出掛け、盆踊りに参加して踊りまくった。前野小太郎も森三左衛門も派手な仮装をして楽しそうに踊っていた。
「小太郎殿、清須は楽しいですか」と藤吉郎が聞くと、
「まあまあじゃ。悪くはねえ」と笑った。
「お前も清須に来いよ」と三左衛門が言った。
「はい、考えておきます」と藤吉郎は答えた。
 盆踊りが済むと、ようやく上総介は勘十郎に対して動き出し、小田井川のほとりの名塚に砦を築き、佐久間大学(盛重)に守らせた。
 八月の半ば、生駒八右衛門を通して、小六のもとに上総介より救援の要請があった。小六はあまり乗り気ではなかった。前野小太郎からの頼みもあって仕方なく承諾した。
 藤吉郎は甲冑(かっちゅう)に身を固め、鉄砲をかつぎ、馬にまたがって小六に従った。上総介を助けるために前日の大雨で増水した小田井川を押し渡り、勘十郎方の大将、柴田権六の軍勢の側面を奇襲した。続いて、林美作守の軍勢を後方から攻め、上総介に勝利をもたらした。敗れた勘十郎は末森城に逃げ込んで籠城したが、母親の嘆願によって許された。

更新日:2011-05-15 07:25:23

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