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16.川並衆

 蜂須賀党の仲間に入った藤吉郎は彼らと一緒に馬にまたがり各地を駈け回っていた。
 鉄砲をかついで飛び回ってはいても、別に戦をしていたわけではない。生駒家を初めとして商人たちの荷物の輸送を護衛するのが任務だった。戦に敗れた落ち武者たちが徒党(ととう)を組んで野武士と化し、商人たちを襲撃するのが日常茶飯事のごとくに行なわれていた。尾張国内を通過するには蜂須賀小六に頼めば安心と小六は商人たちから信頼され、護衛の仕事は次から次へと舞い込んで来た。小六は配下の者たちを各地に飛ばして、商人より護衛料を稼いでいた。
 藤吉郎も三輪弥助らと共に何度も護衛に加わったが、誰かが襲って来るという事はほとんどなかった。それもそのはずで尾張国内の野武士で小六に逆らう者はすでにいない。小六に護衛を頼まない場合、小六が命じて配下の者に襲撃させるのだった。
 藤吉郎は小六の仲間に入って、改めて、小六という男の力を思い知った。尾張の国には山らしい山はあまりなく、野武士たちが隠れているのは木曽川周辺だった。
 木曽川はいくつもの支流を作って流れ、美濃との国境を成していた。川の流れは不安定で洪水の度に流れを変えた。川の中にはいくつもの中洲があり、それらは尾張にも美濃にも属さず、法の及ばない無法地帯と言えた。そんな中洲を拠点にして川並(かわなみ)衆と呼ばれる野武士たちがいた。船を巧みに操り、木曽川を上り下りする船から通行税を取り、逆らう者は襲撃するという海賊まがいの荒くれ者たちだった。彼らは水上を自由に行き来するだけでなく、あちこちに点在する中洲では馬の飼育をし、馬を扱うのも得意で傭兵(ようへい)として戦にも参加していた。さらに、鉄砲という武器を早くから取り入れ、鉄砲の名人も多かった。それら川並衆の親玉が蜂須賀小六だった。
 元々、彼らは木曽川の各地に分散し、それぞれの頭に率いられて独自の活動をしていた。松倉の坪内又五郎、日比野の日比野六太夫、鹿子島の立木伝助、柏森の兼松惣左衛門、柳津(やないづ)の板倉四郎右衛門、小熊の小木曽平八、大浦の村瀬兵衛門(ひょうえもん)、桑原の武藤九十郎、長島の三輪五郎左衛門らが主立った頭だった。一癖も二癖もある彼らを一つにまとめるのは容易な事ではない。小六はそれを鉄砲という新しい武器を使ってまとめる事に成功した。
 鉄砲がまだ珍しかった頃、小六は鉄砲の威力を見せつけ、彼らを驚かせて支配下に組み入れて行った。小六の本拠地であった蜂須賀郷は津島に近く、小六の姉が津島の有力商人である堀田孫右衛門に嫁いだ関係から、小六は早いうちに鉄砲を手に入れる事ができた。
 小六は鉄砲を生駒八右衛門に紹介し、興味を示した八右衛門はその財力によって、さっそく堺より鉄砲を手に入れ、清須より藤吉郎の伯父、孫次郎を呼び寄せ製作に当たらせた。しかし、鉄砲を作るのは難しく、藤吉郎が生駒屋敷にいた頃、孫次郎は堺に修行に行った。鉄砲製作の技術を身に付けて帰って来た孫次郎はようやく鉄砲を完成させ、今では親方として十人の弟子を使って、毎月、五挺の鉄砲を作っている。それらの鉄砲は小六より川並衆に配られていた。鉄砲には火薬が付き物だが、国内では生産する事ができず、手に入れる事は難しかった。その火薬を扱っているのが津島の堀田孫右衛門であるため、小六を通さなければ手に入らない。小六は火薬を自由に扱う事によっても川並衆を支配していた。
 生駒屋敷で鉄砲を作っているという噂は那古野の上総介の耳にも入り、鉄砲好きな上総介は鉄砲を手に入れるために生駒屋敷に出入りするようになったという。
 藤吉郎は小六を見直し、大したもんだと感心していたが、小六は決して今の生活には満足していなかった。
「昔はよかったわ」と言って十年近く前を懐かしがった。
「当時、尾張の備後守と美濃の斎藤道三は年中、戦をしていた。わしらは戦働きをして、随分と稼いだ。犠牲も多かったが稼ぎも多かった。今は退屈でかなわん」
「美濃方として戦ったのですね」
「当然じゃ。備後守は仇じゃったからのう」

更新日:2011-05-15 06:51:41

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