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13.初心

 生駒屋敷は懐かしかった。
 馬場では諸肌脱ぎの男たちが馬を乗り回し、浪人長屋には浪人たちがゴロゴロしている。
 仁王のような門番は藤吉郎を歓迎し、二の曲輪(くるわ)では兵法(ひょうほう)指南役の富樫惣兵衛が武芸を教えている。何もかもが三年前と変わっていなかった。
 出迎えてくれた萩乃は変わっていた。十六歳になり綺麗な娘になっていた。吉乃(きつの)も三年前より綺麗になっているに違いない。早く、吉乃に会いたかった。
 藤吉郎が吉乃の事を聞こうとすると、萩乃はニヤニヤしながら、「残念でした。お姉さんはいないわよ」と言った。「今年の春、美濃の国にお嫁に行ってしまったわ」
 藤吉郎の目の前は真っ暗になった。急に気が遠くなるような気分だった。ある程度、覚悟はしていても再会できると信じていた。
「お帰りなさい」と吉乃が笑顔で迎えてくれる事をいつも夢に見ていた。
 お父は死んじまったし、吉乃は嫁に行っちまった。こんな事なら尾張に帰って来るんじゃなかったと後悔した。
「それで、相手は誰なんだ」と藤吉郎は平静を装って萩乃に聞いた。
「土田(どた)城の七郎左衛門様の次男で弥兵次様っていうのよ」と萩乃はいたずらっぽい目付きで答えた。
「どんな男なんだ」
「背が高くて、強くて、かぶき者で、カッコよくて優しい男よ」
「そうか‥‥‥かぶき者か‥‥‥」
 萩乃は首を振った。「ほんとはどんな人だか知らないのよ。噂では強いって聞いてるけど、どんな顔なのか、どんな格好してるのか、全然知らないわ」
「見てないのか」
 萩乃はうなづいた。「あたし、言ったのよ。会った事もない男の所にお嫁になんか行くなって。でも、お姉さん、父上には逆らえないって行っちゃったのよ」
「そんな‥‥‥」
「でもね、安心して、あなただけじゃないわ、お姉さんに振られたの。前野村の小太郎様も振られたのよ。あの色男、お姉さんがお嫁に行ってから十日間も寝込んだらしいわ」
「小太郎様が?」
「そう。もう、お姉さんの事は諦めて、お松と一緒になったけど」
「お松っていうと惣兵衛殿の?」
「そう、娘さんよ。お松は前から小太郎様の事、好きだったから夢がかなったのよ。今は仲良くやってるみたい」
「そうなのか‥‥‥」
 小太郎は蜂須賀小六の弟分だった。吉乃より十歳くらい年上のはずだった。藤吉郎がここにいた頃、小太郎が吉乃に言い寄っているという事はなかった。藤吉郎がいなくなってから、吉乃の美しさに惹かれたのだろうか。でも、そんな事はもうどうでもよかった。すでに、吉乃は知らない男のもとに嫁いでしまい、もう二度と会う事はないのだった。
「どうやら、あなたも寝込みそうね」と萩乃は意地悪そうに笑った。
 何もかもやる気をなくした藤吉郎は毎日、浪人長屋でゴロゴロしていた。富樫惣兵衛は浪人長屋に顔を出さなかった。娘を嫁に出してから浮気癖も治ったらしい。惣兵衛は来なかったが藤吉郎を知っている浪人が二人いて、猿じゃねえかと歓迎してくれた。
 おきた観音は藤吉郎の事を心配しているのか、いつも側に寄り添っていた。浪人たちはおきた観音の事を、猿のかみさんと呼び、二人をからかっていたが、藤吉郎は何を言われても相手にならなかった。ならなかったというより相手になる程の元気はなかった。飯もろくに食べず、ただ、ぼうっしているだけの毎日が続いた。
 五助は生駒屋敷が気に入っていた。藤吉郎のお陰で屋敷内に自由に出入りできるので、我が物顔で歩き回っていた。兵法指南役の惣兵衛に剣術の腕を認められ、八右衛門の屋敷にも気安く出入りし、駿河や遠江で見たり聞いたりした事を得意げに話していた。
 いつものように藤吉郎が浪人長屋の縁側に座って、おきた観音の踊りを虚ろな目で眺めているとおナツが萩乃を連れてやって来た。萩乃はおナツと同じように袖なしの短い着物を着て、腰に脇差まで差していた。髪形まで同じにして、二人が並んでいると、まるで双子のようだった。
「どう、立ち直った」と萩乃が声を掛けて来た。
「はあ」と藤吉郎は遠くを見つめたまま気のない返事をした。
「ねえ、あたしを見て。どう、似合う」
 萩乃の姿を見ても藤吉郎は驚いた様子もなく、気が抜けたような顔をしていた。
 おナツが藤吉郎の顔を覗き込み、「まだ、駄目みたい」と首を振った。
「ねえ、猿、いつまでもクヨクヨしてたって、お姉さんは帰って来やしないのよ。男らしく、キッパリと忘れたらどうなの」
「そうよ」とおナツも言った。「あんたの目の前に、こんないい女が二人もいるのに、あっ、違った、三人か。三人もいるのに目に入らないの」
「ああ」と藤吉郎はぼんやりと二人を眺めていた。

更新日:2011-05-14 17:40:04

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