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2.清須城下

 杉原彦七郎と従兄の五郎の葬儀も無事に終わった。
 彦七郎の娘、おすみとおふくの二人は、ずっと泣き通しだった。おかみさんが忙しそうに働いているので、藤吉は二人を慰めるのに一生懸命だった。今まで、怖いと思っていたおすみも本当はか弱い女の子なんだと女を見る目がほんのちょっと変わっていた。
 二人も何とか立ち直り、藤吉自身の心の傷も癒えると、また、京都への旅が胸の中に膨らんで来た。
 京都は遠い‥‥‥京都へ旅立つ前に、まず、尾張の都である清須(清洲町)を見ておくべきだと思った。
 藤吉は世話になった皆に別れを告げると、清須に向かって旅立った。
 清須の城には武衛(ぶえい)様と呼ばれる尾張の守護、斯波左兵衛佐義統(しばさひょうえのすけよしむね)がいて、その守護代として織田大和守(やまとのかみ)広信がいた。武衛様は尾張の国の守護だったが、尾張の国をまとめる力はなく、大和守に保護されているといった状況だった。かといって大和守が尾張の国を支配しているのかというとそうでもない。大和守の奉行である織田備後守(びんごのかみ)信秀が尾張国内では最も勢力を持っていた。
 当時の尾張の国の状況は複雑だった。応仁の乱の時、尾張の守護職(しゅごしき)だった斯波氏が家督争いを始めて、東軍と西軍に分かれて戦ったため尾張の国も二つに分けられ、上四郡は岩倉を本拠地とする斯波氏の管轄となり、下四郡は清須を本拠地とする斯波氏の管轄となった。上四郡を支配する岩倉には、すでに守護である斯波氏はいないが、守護代として織田伊勢守信安がいて、清須の織田大和守広信に対抗している。織田備後守は清須の大和守の奉行の一人にすぎなかったのに、勝幡(しょばた)城(中島郡平和町)を本拠地として、津島の商人たちと結び、経済的に優位の立場に立ち、さらに、那古野(名古屋市中区)に進出して熱田の商人とも結び勢力を拡大した。また、隣国の三河(愛知県東部)や美濃(岐阜県南部)にも積極的に進出して、守護代の両織田氏をしのぐ活躍をしている。そんな事は、まだ十一歳の藤吉は知らない。ただ、清須と聞けば、都という印象が強く、京都に行く前に見ておかなければならないと思っていた。
 清須には祖父がいた。母の父親である祖父は刀鍛冶(かたなかじ)だった。もう六十歳を過ぎ、伜の孫太郎に仕事を継がせて、のんびりと隠居しているが、その腕は清須一との評判だった。
 白髪頭の祖父は、たった一人でやって来た藤吉を見て驚き、目を細くして歓迎してくれた。しかし、藤吉の格好は祖父の気に障ったようだった。いが栗のような頭に従姉(いとこ)の真っ赤な着物を着て、白い組紐を腰に巻き付け、黒光りした木剣を差して得意になっていた。藤吉はその姿が気に入っていたが、祖父には理解できなかった。すぐに木剣を取り上げられ、地味な職人の格好に着替えさせられた。
 清須はさすがに都だった。大通りには大きな屋敷が建ち並び、様々な人たちが大勢行き交っていた。娘たちは着飾って、しゃなりしゃなりと気取って歩き、若い男たちは今、流行りのかぶき姿で闊歩している。大人たちはその異様な風体に目をそむけるが、藤吉ら子供たちから見れば、それは憧れの姿だった。
 かぶき姿に決まった規則はない。人と変わった目立つ格好をして、奇抜な行動をとる事をかぶくと言い、かぶいている者をかぶき者と呼んでいた。若い者たちはかぶき者と呼ばれる事を誇り、競って、人と違う格好をした。髷(まげ)をやたらと高くしたり、革でできた衣や袴を身につけたり、派手な模様の着物を着たり、三尺余りもある大太刀を腰に差したり、刀の柄(つか)を長くして、白や朱の組紐を巻き付けたり、それぞれが工夫を凝らして自己主張をしている。戦国乱世が生んだ一つの風潮だった。明日の事はわからない。今がよければそれでいい。今を精一杯生きている証しとして、目立つ格好をし、人並み外れた行動をとっていた。
 祖父はかぶき者から目をそらし、藤吉を睨むと、「あんな真似は絶対にするんじゃないぞ」ときつく言った。
 藤吉はしぶしぶとうなづいたが、カッコいいなあと見とれていた。

更新日:2011-05-14 13:30:48

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