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 藤吉郎はおきた観音を離すと、「おめえ、綺麗になってよかったな」と長い髪を撫でた。
 おきた観音は花束を差し出しケラケラと笑っていた。
 藤吉郎は花束を受け取って、お礼を言った。
 おきた観音は子守唄を歌いながら藤吉郎の後について来た。村から出るわけではないので、あえて追い払わなかった。
 家の近くで偶然、姉と出会った。
「おっ、藤吉じゃねえか。ほう、おめえ、偉くなったのか」と姉は藤吉郎の格好を眺めた。
「これには訳があるんだ。正式な侍になったわけじゃないんだ」
「ふーん」
「お父はいるか」
「ああ、いるよ。最近、やけに元気なくてな、寝たり起きたりしてるわ」
「具合が悪いのか」
「時々、咳き込むんだ。暑さにやられたんかもしれねえ。涼しくなったら治るだろ」
 姉は藤吉郎の後ろで踊っているおきた観音を眺めた。
「おめえ、おきたの奴に着物をくれたろう」
「ああ」
「おめえが帰った後、おきたがおめえの着物を着てんのを見てな、不思議に思って聞いてみたら、おきたの奴、嬉しそうな顔して、おめえの名を呼んだんだ。俺はおめえがおきたの面倒を見ていた事を知ってな、おめえの代わりに面倒を見てやったぞ」
「えっ、それじゃあ、姉ちゃんがおきたの着物を洗ってやったのか」
「そうさ。時々、馬鹿な男どもを追っ払ってやるが、四六時中、見てるわけにはいかねえからな。相変わらず、悪さする奴はいるがどうしょうもねえ」
「おきたのうちの者はどうしたんだ」
「あいつを可愛いがってた婆ちゃんが亡くなってな、うちの者はおきたを見捨てて萱津(かやつ)の方に行っちまったわ」
「親はどうなってんだ」
「母親は津島に嫁に行ったんだがな、おきたが狂った後、婆ちゃんに預けたんだよ」
「おきたの親は津島にいるのか」
「いるんだろうな」
「おきたが乞食(こじき)になってるのを知ってんのか」
「さあな。狂った娘なんか、どうでもいいんだろ」
「どうして、狂ったんだ」
「そんな事は知らねえ。こっちに来た時は狂ってたからな。多分、何人もの男に手籠(てご)めにでもされたんだろ」
「可哀想に‥‥‥」
「おめえは優しいな。おきたの事は俺に任せておけ」
 姉は槍をかついで畑に向かった。
「トーモ、トーモ」と言いながら、おきた観音は姉の後をついて行った。姉ちゃんの名前を知っているのか、と藤吉郎は首を傾げた。
 筑阿弥は縁側で破れた扇子をあおぎながら昼寝をしていた。藤吉郎の顔を見ると起き上がり、「よお、帰って来たな」と笑った。
 急に年を取ってしまったようだった。元々、痩せてはいたが、さらに細くなってしまったように思えた。
「具合が悪いのかい」
「いや、大丈夫じゃ。ちょっと昼寝してただけじゃ。お前が一人前になるまではな、病(やまい)なんかに負けてはおれん。心配するな」
 藤吉郎は筑阿弥の隣に座ると、「仇(かたき)討ちはやめました」と言った。
「うむ、備後守(びんごのかみ)が死んじまったからな。あの後、すぐに戻って来ると思ってたが、随分とのんびりしてたのう」
「はい。ちょっと考え事をしてました」
「ほう、考え事か。お前も大人になったようじゃな。これからどうするんじゃ」
「駿河に行きます。駿河の今川家に仕えるつもりです」
「うむ」と筑阿弥は膝を打った。「お前がそう言うのを待っていたんじゃ」
 筑阿弥は急に立ち上がると奥の部屋に行き、ゴソゴソしていたかと思うと縄に通した銭をぶら下げて来た。
「一貫文(いっかんもん)ある。路銭(ろせん)にしろ」と藤吉郎に渡した。
「一貫文も?」
「この間の茶碗を売ったら二貫文になったんじゃ。一貫文はともの嫁入りのために取ってある。その一貫文はお前が好きに使え」
「あの茶碗を売っちゃったんですか」
「ああ。お茶も飲まんのに茶碗はいらんからの。銭にした方が役に立つ。だがの、一貫文なんて銭はすぐになくなるぞ。よく考えて使うんじゃな」
「お父、ありがとう」
 一貫文の銭の重さが、それ以上に感じられた。銭の一枚一枚に筑阿弥の気持ちがこもっているのを感じ、胸が熱くなっていた。
「わしのためにも立派な侍になってくれ」

更新日:2011-05-14 16:11:35

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