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9.旅立ち

 次の朝、藤吉郎は三姉妹に別れを告げた。「どうしても行っちゃうの」と吉乃(きつの)は寂しそうな顔で言った。
 藤吉郎は吉乃の姿を瞼(まぶた)に焼き付けようと、じっと見つめながら、うなづいた。偉い侍になって帰って来るから、それまで待っていてくれと言いたかった。しかし、声に出す事はできなかった。
「いつでも帰って来なよ」と萩乃は言った。いつもの萩乃と違って、しんみりとしていた。
「ねえ、駿河って遠いの」と菊乃は藤吉郎の袖を引っ張った。
「うん、遠いよ」
「いつ、帰って来るの」
「すぐ、帰って来るわよ、ね」と萩乃が言って笑った。
「気をつけてね」と吉乃が言った。
 藤吉郎は吉乃にうなづいた。
「ねえ、猿、最後の水浴びに付き合ってよ」と萩乃が陽気に言った。「急ぐわけじゃないんでしょ。猿がいなくなったら、もう、水浴びなんてできなくなっちゃうもの。ね、いいでしょ」
 吉乃も菊乃も賛成した。
 いつもの河原で、はしゃぎながら着物を脱いでいる三姉妹を眺めていた藤吉郎の心はぐらついた。木下家なんかどうでもいい。このまま、三人の家来のままでいいと思い始めた。吉乃の側にいられるだけでもいいと思い始めた。
 すっかり小麦色に焼けている三人は楽しそうに川の中に入って行った。旅にでれば、もう二度と、この光景は見られない。ここにいれば、毎年、夏になる度に見る事ができる。でも、三人の家来のままだった。家来のままでは、吉乃を嫁に迎えられない。吉乃を嫁に迎えるためには、旅に出て偉くならなければならない。藤吉郎の心は揺れていた。
「最後なんだから一緒に入りなさいよ」と萩乃が両手を上げて叫んでいた。自慢の乳房が誇らしげに揺れていた。
「藤吉郎もおいで」と菊乃も手を振った。
 吉乃も笑いながら手招きしている。萩乃には負けるが、形のいい乳房が輝いていた。
 藤吉郎はうなづくと着物を脱ぎ捨て、川の中に入って行った。三人はキャーキャー言いながら藤吉郎に水をかけて来た。藤吉郎もエイヤーと三人に水をかけた。
 萩乃が水中に潜って藤吉郎のふんどしを引っ張ってはずした。藤吉郎は慌てて股間を押さえた。
「ずるいわよ」と萩乃は顔を出すと、ふんどしを投げ捨てた。「これで、おあいこよ、ね」
 吉乃は笑っていた。
「こいつめ」と藤吉郎は萩乃を追いかけた。萩乃は素早かった。
「どこに消えた」と水の中を眺めていると、隣にいた吉乃が突然、悲鳴をあげて倒れて来た。
 藤吉郎は慌てて吉乃を受け止めた。吉乃は必死になって藤吉郎にしがみついた。藤吉郎は吉乃の体を抱き起こした。吉乃は荒い息をして藤吉郎に抱き着いていた。
 萩乃が水の中から顔を出して二人に水をかけ、「お似合いよ」と笑った。
 吉乃は顔を赤らめて藤吉郎から離れた。
「やったわね」と吉乃は萩乃を追いかけて行った。
 藤吉郎が笑いながら二人を見ていると菊乃が藤吉郎の膝を後ろから押して来た。藤吉郎は水の中に倒れ込んだ。
「こらっ」と藤吉郎は菊乃を追いかけた。
 水から上がって着物を着ると吉乃は、「面白かったわ」と藤吉郎に言った。「でも、もう最後なのね」
 藤吉郎は力なくうなづいた。
「待ってるわ。偉いお侍さんになって帰って来てね」
 藤吉郎は自分の耳を疑った。吉乃は確かに、待っていると言った。
 藤吉郎は吉乃を見つめ、力強くうなづくと、「行って来る」と立ち上がった。
 吉乃、萩乃、菊乃と三人の顔を眺め、軽く手を振ると三人に背を向けて走り出した。途中で振り返り、大きく手を振ると、「やった」と思いきり飛び上がった。
 そのまま、駿河まで行こうと思ったが、新たな決心を義父の筑阿弥(ちくあみ)に告げてから行った方がいいと思い、中村に寄る事にした。
 村に帰るとすぐ、おきた観音の歓迎を受けた。去年の末、ボロをまとって震えていたのに、今は髪も綺麗にとかし、さっぱりした洗いたての着物を着ていた。
 草花の束を手にしたおきた観音は、「トーキチ、トーキチ」とニコニコしながら藤吉郎に抱き着いて来た。
 以前とは違い、女を知ってしまった藤吉郎には頭のいかれたおきた観音でも、やはり、一人前の女を感じた。顔は人並み以上だし、身体は少し汚れてはいるが我慢できない程ではない。村の男たちがおきた観音に悪さをする気持ちが藤吉郎にも充分にわかった。しかし、藤吉郎は村の男たちのように、おきた観音を弄(もてあそ)びたくはなかった。

更新日:2011-05-14 16:08:42

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