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 着物が直るとおきた観音は、「トーキチ、トーキチ」と言いながら藤吉に抱き着いて来た。
「今日はおめえと遊んでる暇はねえんだ。もうすぐ日が暮れるからな、ちゃんと、うちに帰るんだぞ」
「トーキチ、トーキチ」と歌いながら、おきた観音は後をついて来た。何度も何度も追い払って、やっと諦め、ケラケラ笑いながら帰って行った。赤とんぼが一緒になって、おきた観音の回りを楽しそうに舞っていた。
 おきた観音を見送ると藤吉は南へと向かった。荒れ果てた田畑の中を黙々と歩き、半里(約二キロ)ばかり行くと、こんもりとした土塁が見えて来た。辺りはもう、すっかり暗くなっている。
 ゴミ溜めになっている堀と草におおわれている土塁に囲まれた武家屋敷の門の前に立ち、藤吉は大声で叫んだ。
「おじさーん。烏森(かすもり)のおじさん、ねえ、開けてよ」
「誰じゃ。外で騒いでるのは」と門の中から声が聞こえた。
「中村の藤吉です。おじさん、開けて」
 しばらくして門が開き、顔馴染みの門番の顔が槍の穂先と一緒に顔を出した。
「何だ、藤吉じゃねえか、今頃、どうしたんじゃ」
「ねえ、おじさん、いる?」
「おう、殿はおられるぞ」
 藤吉は門の中に入った。土塁に囲まれた中はおよそ二十五間(約五十メートル)四方で、母屋(おもや)、蔵、廐(うまや)、そして、侍(さむらい)長屋があった。
 屋敷の主人、杉原彦七郎は父方の伯父で、親戚として幼い頃より親しんでいた。革の袖無しを着た彦七郎は母屋の縁側に立ち、怪訝(けげん)な顔をして藤吉を迎えた。
「お寺を抜け出して来ました。うちに帰れないので、しばらく、ここに置いて下さい」
「おい、何度目じゃ」
 藤吉は指を一本、二本、三本と立てて見せた。
「まったく、しょうもねえ奴じゃの、おめえは。井戸でその汚え面を洗って来い」
 藤吉が井戸で手足を洗っていると、二人の娘が台所から出て来てクスクスと笑った。
「何がおかしい」と藤吉は睨んだが、娘たちは余計に笑い出した。
「また、お寺を追い出されたのね」と年上のおすみが藤吉を指さしながら言った。
 おすみは藤吉の姉と同い年で、何となく苦手だった。性格は姉と全然違って女らしく、女らしい女に慣れていない藤吉には近寄りがたい存在だった。
「今度は何したの」と年下のおふくが興味深そうに聞いた。
 おふくは藤吉より一つ年下で、素直で可愛い娘だった。
「何もせんよ。ただ、坊主になるのはやめたんだ」
「嘘ばっかし」とおすみは怖い顔をした。「この間は、仏様をひっくり返したんでしょ。高価な大皿も割ったって聞いたわ」
「仏様をひっくり返すとバチが当たるのよ」とおふくが心配そうな顔をした。
「大丈夫だい。ちゃんと拝んだもん」
「ねえ、今度は何を壊したの」
「お寺じゃ。お寺をメチャメチャに壊してくれたわ」と藤吉は言うと、唖然とした二人の横を擦り抜け、「俺は偉いお侍になるんだい」と母屋の中に入って行った。
 藤吉はおすみの真っ赤な着物を着せられて、彦七郎の前にかしこまっていた。
「まあ、やっちまった事は仕方ねえのう。所詮、おめえには向いてなかったんじゃろう」
 彦七郎はうまそうに酒をすすった。
「おめえの親父は、おめえに学問させて、そのうち茶の湯でも教えようと考えたんじゃろうが、おめえのその面を見てると、どう考えても、お茶坊主っちゅう柄じゃねえのう。まあ、遠慮せずに食え」
「はい、いただきます」
 藤吉は目の前のお椀に飛びついた。
「お茶坊主って、何なんです」と湯漬けをかっ込みながら聞いた。
「お殿様にお茶を差し上げるお役目じゃ」
「どうして坊主なんだろ」藤吉は首を傾げた。
「坊主っちゅうのはの、俗世間の身分の外におるんじゃよ」
「俗世間の身分? 何、それ」
「世の中にはの、身分ちゅうもんが色々とあってな。例えば、わしらが古渡(ふるわたり)のお殿様と同じ席に座る事はできんのじゃよ。古渡のお殿様だって、清須におられる大和守(やまとのかみ)殿と同席はできんのじゃ」
「ふーん。古渡のお殿様より清須のお殿様の方が偉いんか‥‥‥」
「まあ、そうじゃのう。その清須のお殿様よりも偉いお方が、清須におられる武衛(ぶえい)様じゃ」
「武衛様?」
「武衛様は京都におられる将軍様の一族なんじゃ」
「へえ、そんな偉い人が清須におったんか。その武衛様というのが尾張(おわり)の国(愛知県西部)で一番偉いんか」
「そういう事になるのう。その武偉様とも同席する事ができるんがお茶坊主なんじゃ。ただし、一流の茶の湯の腕を持ってなくちゃならんがの」
「ふーん。お父は一流じゃなかったんだな」

更新日:2011-05-14 13:22:48

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