• 17 / 92 ページ
「すまん、大丈夫じゃ‥‥‥備後守はの、京都のお公家さんたちを勝幡城に招待して豪勢に持て成したんじゃ。その時、わしはお公家さんたちを那古野へ御案内しろと命じられた。わしはお公家さんたちを連れて、今川殿のおられる那古野城に行った。城内の広間で初めて今川殿と会ったが、まだ、十二、三の子供じゃった。しかし、将軍家の一族だけあって、どことなく気品のあるお顔立ちじゃった‥‥‥それからのわしは備後守の使いとして何度も今川殿のもとへ通った。備後守は今川殿の機嫌を取るために様々な贈り物をしたが、皆、わしが取り次いでやったんじゃ。今川家の重臣の一人に木下彦右衛門という侍がいた。お前の爺様じゃ。わしは同じ一族として備後守に利用されたんじゃよ」
「えっ、お父も木下一族なんですか」
「お前の父親とは従兄弟(いとこ)だったんじゃよ。あの頃のわしは備後守の代理じゃと得意になっていた。馬鹿じゃった。迂闊じゃった‥‥‥まあ、最後まで聞いてくれ。備後守はお前の爺様に今川殿を尾張の守護職(しゅごしき)に就けようと持ちかけたんじゃ。清須の武衛(ぶえい)様を倒して、実力を以て尾張の国を平定しようと持ちかけたんじゃ。爺様は備後守と組めば、それも夢じゃねえと考え、備後守と手を結んだ。話が決まると備後守は今川殿の守護代と称して、熱田の近くの古渡に城を築き、さっそく移って来た。勿論、わしも古渡に移り、備後守の使いとして何度も那古野城に行った。備後守は今川殿の機嫌を取る一方では熱田の商人を味方に引き入れたり、今川家の家臣たちを引き抜いたりしていたんじゃ。
 古渡に移って翌年の末、三河の松平次郎三郎(徳川家康の祖父)が守山まで攻めて来た。ところが、次郎三郎は守山で家臣に殺されてしまったんじゃ。備後守はすぐに、大将を失った三河勢を追いかけた。勿論、今川家の家臣たちも備後守に従い、松平氏の本拠地、岡崎まで攻めたが、三河勢はしぶとく、岡崎城を落とす事はできなかった。その戦で、木下家の当主だったお前の爺様は戦死してしまった。跡継ぎの太郎右衛門も戦死してしまったんじゃ。太郎右衛門はお前の親父の兄上じゃ。備後守の策略に乗せられて、今川家の家臣の多くが、その合戦で戦死してしまったんじゃよ。それから二年間、備後守はじわじわと今川殿の首を絞めるように、徐々に勢力を広げて行った。わしは相変わらず、今川殿の機嫌を取るため那古野と古渡を行ったり来たりしていた。備後守のたくらみに全然、気づかなかったんじゃ。備後守が兵力を蓄えている事は知っていたが、それは清須を攻めるものだと信じていた。
 天文七年の春、桜が満開に咲き誇る頃、那古野城内で連歌会が盛大に催された。勿論、わしも客たちに茶の湯の接待をするために、その場にいたんじゃ‥‥‥あの時の恐ろしさは今でも忘れられん。突然、連歌会の行なわれている広間が騒がしくなり、何事かと思ってると、鎧(よろい)武者が武器を振り回して城内の者たちを片っ端から斬っていた。何が起こったのか、わしにはまったくわからなかった。ただ、逃げなけりゃ殺されると思い、城から逃げ出したんじゃ。目の前で何人もの者が殺された。逃げ惑う女や子供たちまでも殺された。清須の大和守が急襲したに違いないとわしは思っていたが、古渡に帰ると城は厳重に警固され、城内には戦支度の武者があふれていた。わしは初めて、備後守が那古野を攻めた事を知った。お前の親父は今川殿を守るため那古野城で戦死した。備後守は那古野城を攻めると共に、木下家の本拠地、中村の屋敷も攻撃して皆殺しにした。木下家は今川殿と共に全滅してしまったんじゃ‥‥‥わしは備後守に利用されて、一族を皆殺しにする手助けをしてしまったんじゃよ。
 備後守は那古野城を手に入れると、もう、わしの事など見向きもしなかった。わしは木下家の領地だった中村のほんの一部の土地を与えられて、お祓(はらい)い箱となったんじゃ‥‥‥わしは京都まで行き、厳しい修行に耐えて茶の湯を身に付け、意気揚々と故郷に帰って来た。その腕を見込まれて備後守に仕えた。しかし、結果は備後守に利用されて、一族を滅亡させる事となってしまった。わしはここに来て、備後守から貰ったお茶道具をすべて叩き壊した。その後、茶の湯は一切やらなかった。さっき見ていた茶碗は今川殿からいただいた物じゃ。あれだけはどうしても壊す事ができなかった。物置の奥にずっとしまって置いて、すっかり忘れてたんじゃが、なぜか急に思い出して、取り出して眺めてたら、お前が帰って来たという訳じゃ」
「今川殿の遺品ですか‥‥‥」
 筑阿弥はうなづいた。

更新日:2011-05-14 15:02:54

  • Twitter
  • LINE
  • Facebook