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5.父親

 故郷に帰って来たのは六年振りだった。寺を追い出され、陰ながら母と姉を見てからも三年余りが経っていた。
 やはり、故郷は懐かしかった。藤吉は流行り唄を歌いながら、大手を振って我が家へと帰って行った。
 寒いとはいえ、天気がいいから、みんな、畑の方にいるのだろうと思ったが、うちの中から誰かの咳き込む声が聞こえて来た。
 うまい具合に筑阿弥が一人でうちにいた。日当たりのいい縁側で、綿入れを着て、のんきそうに茶碗を眺めている。
 筑阿弥にしては珍しい事だった。仕事の事しか頭にない、くそ真面目な筑阿弥がぼうっとしている。今まで、あんな姿を見た事がなかった。おかしいなと思いながらも、「ただいま」と声を掛けると、筑阿弥は顔を上げた。
 一瞬、驚いたようだったが、すぐにまた、茶碗に目を落とした。何となく顔色が悪く、やつれたように感じられた。
「お父、病気なのか」と藤吉は思わず聞いた。
 筑阿弥は首を振り、「何でもないわ」と言ったが、急に苦しそうに咳き込んだ。
「大丈夫かい」と藤吉は側に駈け寄った。
 筑阿弥は大丈夫じゃと言うように手を上げたが、いつまでも咳き込んでいた。ようやく、発作が治まると、「大丈夫じゃ。ちょっと疲れが出ただけじゃ。横になってりゃ治るんじゃがの、昼間っから寝るのはどうも性に合わん」といつもの口調で言った。
「寝てなきゃ駄目だよ」
「さっきまで寝てたんじゃ」と言うと眺めていた茶碗を大事そうにボロ布で包んだ。
「こいつはの、わしの宝物じゃ。わしの唯一の財産じゃ」
 筑阿弥は寂しそうな目をして、丁寧に何枚もの布で茶碗を包んでいた。
 いつもの筑阿弥と違うようだった。顔を見せた途端に怒鳴られると思っていたのに、以外にも筑阿弥は静かだった。静か過ぎるような気がした。
「どうしたんじゃ。津島の喜左衛門殿から、岩倉に行ったと知らせてくれたが、もう、帰って来たのか」
 筑阿弥は茶碗を木箱にしまうと改めて、藤吉の姿を眺め、「お前、侍になるつもりか」と聞いた。
 藤吉の姿は又右衛門の所にいた時のままだった。ナナが縫ってくれた袷(あわせ)に袴(はかま)を着け、腰には脇差まで差していた。
 藤吉は強くうなづいた。
「烏森(かすもり)のナナさんの所にお世話になってました」
「又右衛門殿の所にいたのか」
「はい‥‥‥その又右衛門さんから信じられない事を聞いたので帰って来ました」
「信じられない事?」筑阿弥は眉(まゆ)を寄せて、藤吉の顔を見つめた。その顔は父親以外の何者でもなかった。
「お父は、本当のお父じゃないと聞きました」と藤吉は小声で言った。
 筑阿弥は藤吉を見つめたまま固まってしまった。しばらくして、「そうか‥‥‥聞いたのか‥‥‥」と小声でつぶやいた。「いつかはわかる事じゃ」
「それじゃあ、本当なんですか」
 筑阿弥はうなづいた。「お前の本当の父親は、お前が二歳の時に戦死したんじゃ」
「お侍だったんですね」
「そうじゃ」
「本当の事を話して下さい」
「うむ」と言って、筑阿弥は茶碗の入った木箱を片付けると囲炉裏端に藤吉を誘った。
「お前が十五になったら話すつもりじゃった‥‥‥そうか、もうすぐ十五じゃな」
 筑阿弥はかすかに笑った。「早いもんじゃ。もう十五になるのか‥‥‥いいじゃろう、本当の事を話してやろう。だがな、おっ母には内緒にしておけ。昔の不幸を思い出させたくはねえからの」
「いいな」と言うように、筑阿弥はうなづいてみせた。
 藤吉もうなづいた。
「お前の父親はな、木下弥右衛門という侍じゃった。当時、この辺り一帯は木下家の領地だったんじゃよ。烏森の杉原家に負けねえぐれえの立派なお屋敷に住んでいたんじゃ。木下家は那古野(なごや)城におられた今川殿の古くからの家臣でな、お前が生まれた頃、小田井川(庄内川)以東は那古野を中心に今川殿の領地じゃった。当時、津島の近くの勝幡(しょばた)にいた備後守(びんごのかみ)は、清須の大和守、岩倉の伊勢守に対抗するためには今川殿を利用するしかねえと考えたんじゃ。あれは忘れもしねえ。わしが備後守に仕えて間もねえ時じゃった‥‥‥」
 筑阿弥はまた咳き込んだ。藤吉は筑阿弥の背中をさすった。

更新日:2011-05-14 15:01:10

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