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 翌朝、奉行所の役人が大勢やって来て騒いでいた。木賃宿にも来たが、皆、知らんぷりを決め込み、初めて知ったかのように驚いていた。藤吉も問い詰められたが、ぐっすりと眠っていたので知らないと答えると役人は信じてくれた。
 花街に行くと、ここでも加賀屋の娘の事が話題になっていた。藤吉が娘の死体を見たと言うと、皆、目を輝かせて聞いて来た。藤吉は一部始終を面白おかしく聞かせた後、林助左衛門の兄で弓矢の名人を知らないかと聞いた。答えはすぐにわかった。
 名を林弥七郎といい、ここでは有名な男だった。遊女たちの話だと、時々、遊びに来るが、それよりも弓の稽古をする的場に行けば必ず会えるだろうと言う。的場は城外にあり、大手門をくぐらなくても行く事ができた。
 藤吉はさっそく的場に向かった。烏森の助左衛門からの使いだと嘘をつくと、すぐに林弥七郎に会う事ができた。
「なに、烏森のナナ殿の御亭主の名じゃと」
「はい。頼ってまいりましたが、名前がわからないので、一月以上も捜し回っておりました」
「一月以上もか。根気のいい奴じゃ。一月経って、ようやく、わしの名を思い出したのか」
「はい。昨夜、突然、弥七郎様のお名前が夢の中に出てまいりました」
「面白い奴じゃの。ナナ殿の御亭主の名は浅野又右衛門殿じゃ。この城下で一番の弓取りじゃよ」
「一番? 一番は弥七郎様では」
「いやいや。又右衛門殿がいる限り、わしは二番という所じゃのう。ほれ、あそこで弓を構えているのが又右衛門殿じゃ」
 藤吉は弥七郎の示す方を見た。背の高い侍が今、矢を射る所だった。
 あれがナナさんの御亭主様か‥‥‥見るからに、たくましい武士だった。
 藤吉は又右衛門を眺めながら、ようやく、会う事ができたとほっとしていた。しかし、又右衛門は藤吉の事を知らなかった。今まで会った事もないので当然とも言えるが、中村の筑阿弥(ちくあみ)の伜だと言ってもわからない。それでも、ナナに会えばわかるだろうと、家まで連れて行ってくれた。
 又右衛門と弥七郎の屋敷はやはり城内にあった。藤吉は浮き浮きしながら大手門をくぐり、堀にかかる橋を渡って城内に入った。そこは昨日までいた所とは、まるで別世界だった。通りにはゴミ一つなく、鼻をつく悪臭もない清潔で静かな所だった。
 又右衛門の屋敷は思っていた以上に立派だった。広い庭があり、藤吉はわけもなく走り回った。界隈には同じような屋敷がいくつも建ち並び、隣が林弥七郎の屋敷で、二人は仲のいい友だという。
 久し振りに見る従姉のナナは、もう立派な奥さんになっていて、道端で会ってもわからない程、変わっていた。それはお互い様で、ナナは藤吉の姿を見ても、しばらくは思い出せないようだった。
「ああ、おなかさんとこの息子さんですね」
「はい。筑阿弥の伜です」
「筑阿弥? ああ、そうだったわね。随分と大きくなって」
 又右衛門とナナとの間には子供がいなかった。ゆっくりしていけと藤吉は二人に歓迎された。
「どうじゃ、わしらの養子になって侍奉公せんか」と又右衛門は夕飯を食べながら言った。
「いえ、それは‥‥‥」と藤吉は口ごもった。
「侍奉公はいやか」
「はい」
「なぜじゃ」
「お侍は戦死しますから」
「まあ、そうじゃが、何かやりたい事があるのか」
「京都に行きたいんです」
「なに、京都? 京都に行って何をするんじゃ」
「何って‥‥‥」藤吉は返事に戸惑った。京都に行って何をするのかまで決めてはいなかった。
「筑阿弥殿のように茶の湯でも習うのか」
「いえ。茶の湯は習いません」
「それじゃあ、何をするんじゃ。当てもないのに都に行っても、野垂れ死にするだけじゃ。世の中、そんなに甘くはないぞ」
「はい、わかってます。だから、行商人になって商いをしながら京都に行くつもりです」
「行商人じゃと? まあ、商人も悪くはないがの。どうせ、商人になるなら、小折(こおり)村の生駒殿のような商人にならなくてはのう」
「小折村の生駒殿? あれ、聞いた事あるな。確か、清須の伯父さんがそこで鉄砲を作っているはずだ」
「ほう、お前の伯父さんは鉄砲鍛冶なのか」
「お爺さんは刀鍛冶だけど、伯父さんは鉄砲鍛冶になったらしい」
「そうか。まあ、伯父さんの事はいいとして、お前は本気で商人になるつもりなのか」
「商人と言っても、大きなお店は駄目です。小さなお店で、お客さんに直接、物を売るのが楽しいんです」
「お前、行商をやった事があるのか」
「あるよ。おじさんを見つけるまで、お城下で針を売ってたんだ」
「針売りか‥‥‥お前がどうしても行商をやりたいというのなら仕方がないが、お前はまだ、世の中の事をよく知らん。自分の将来の事はよく考える事じゃな。好きなだけ、ここにいていいからの」

更新日:2011-05-14 14:50:16

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