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 最低の木賃宿に一月もいると、今まで知らなかった世の中の事を色々と知る事ができた。行商人や流れの職人たちは用が済めばさっさと出て行ったが、行く所もない連中も何人かいて、いつまでも木賃宿で暮らしていた。
 文無しと言いながら、いつも酒ばかり飲んでいる佐々木源三郎と名乗る浪人は、酔っ払っては毎晩のように喧嘩騒ぎを起こしていた。刀を酒に替えてしまったため、持っていないので人を斬るという事はなかったが、暴れると手が付けられなかった。この宿に、初めて来た旅人は皆、犠牲者になっている。その源三郎もおせきという女には頭が上がらず、おせきに文句を言われるとおとなしくなるのが不思議だった。
 おせきは遊女だった。遊女といっても花街にいる遊女とは違って、筵(むしろ)を持って道端に立って客を取る立ち君と呼ばれる遊女だった。おせきは藤吉の母親と言ってもいい程の年頃で、こんな所にいつまでもいたら駄目だよ、と藤吉の相談にも乗ってくれた。
 今夜も新しく来た筆売りを相手に源三郎が息巻いていた。いつものように相手の素性を聞くと、大袈裟に名乗りを上げ、昔の自慢話を始めた。相手がおとなしく聞いていれば、気分よく話して聞かせるが、そんな話は嘘だと言って相手にならないと暴れだす。こんな宿に来る連中は一癖も二癖もある奴ばかりで、おとなしく聞いている者などいない。決まって喧嘩が始まった。
 藤吉は部屋の片隅で丸くなりながら、ぼんやりと筆売りを見ていた。珍しくおとなしそうな男で、今夜は静かに眠れそうだと思った。
「わしの弓矢の腕は家中一でのう、百発百中じゃ。狙った獲物は必ず倒す。敵はバッタバッタたと面白えように倒れて行ったわ」と源三郎は言っていた。
 その話はもう聞き飽きていたが、ふと、烏森に行った林助左衛門に兄がいた事を思い出した。名前までは思い出せなかったが、岩倉城下で一、二を争う弓矢の名人だと聞いている。その人に聞けば、ナナの嫁ぎ先がわかるかもしれないと藤吉は手を打って喜んだ。
 いい考えが浮かび、一安心して気持ちよく眠っていると、また、喧嘩騒ぎに起こされた。あの筆売りもやはり辛抱できなかったか、と目を開けると喧嘩しているのは源三郎ではなかった。二、三日前からいる職人二人が殴り合いを始めている。源三郎の方は得意になって合戦の話を続け、筆売りは喧嘩騒ぎを気にしながらも、おとなしく話を聞いていた。
 ようやく、喧嘩も終わり静かになったかと思うと、今度は女が殺されたと言って誰かが駈け込んで来た。この辺りで人が殺されるのは珍しくはなかったが、殺されたのが若い娘だと聞くと皆、やじ馬根性を出して見物に出掛けた。源三郎までが真っ先に飛び出して行き、筆売りはやっと解放されたとほっとしていた。藤吉も目が覚めたついでに、見物に出掛けた。
 やじ馬たちに囲まれた死体は草むらの中に転がっていた。当然のごとく着物を剥がされて何も着ていない。可哀想に長い髪までも切られていた。猿轡(さるぐつわ)を噛まされ、白目をむき、顔は苦しそうに歪んでいる。体は変な風にねじれ、細い首が黒ずんでいるが、他には傷一つなく、若々しい白い肌はまぶしく感じる程だった。手籠めにされたあげくに、首を絞められて殺され、身ぐるみを剥がされたに違いなかった。
「もったいねえな。いい女じゃねえか」と源三郎が言った。
 藤吉も確かにもったいないと思った。
「こいつは加賀屋の娘だぜ」と誰かが言った。
「そういや、そうだな」と同意する者がいた。
「なに、加賀屋じゃと」
「やべえぜ、こいつは。かかわりになんねえ方がいいぜ」
「えれえ事になっちまった」
 やじ馬たちはこそこそと話ながら散って行った。
 藤吉も加賀屋は知っていた。城下の大通りに大きな店構えを持つ呉服屋だった。何度か、針を売りに行き、殺された娘も見た事があった。綺麗な着物を着て、女中たちに囲まれ幸せそうだった。近いうちに侍のもとへ嫁に行くと聞いていた。どうして、そんな娘がこんな所で殺されたのかわからないが、大騒ぎになる事は間違いなかった。かかわりにならないように藤吉もその場を離れた。
 木賃宿は加賀屋の娘の話で持ちきりとなった。源三郎を中心に輪になって、娘の事を話している。筆売りは殺された娘のお陰で解放され、片隅に隠れて眠っていた。藤吉は皆の噂話を聞きながら、誰があんなひどい事をしたんだろうと考えながら眠りに落ちて行った。

更新日:2011-05-14 14:48:41

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