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1.赤とんぼ

 夕日が真っ赤に燃えていた。
 河原の土手の草むらから、突然、小坊主が顔を出した。辺りをキョロキョロ見回し、ニコッと笑うと、「ヨッホッホー」と叫んで、勢いよく飛び上がった。
 嬉しそうに鼻歌を歌いながら踊るような足取りで、小坊主は夕日を背にして歩き始めた。あちこち破れたボロ同然の着物をまとい、顔も手足も泥だらけ、そんな事はお構いなしとニコニコしている。その顔は何とも言えない愛嬌にあふれ、どことなく猿のようだった。
 小坊主は急に立ち止まると振り返り、夕日に向かって、あかんべえをすると両手を振り回しながら勢いよく走り出した。
 回りの景色を眺めながら、「ひでえなあ」と小坊主は叫んだ。
 田畑は荒れ果て、朽ち果てた空き家がやけに目に付いた。戦続きで田畑が荒らされるにもかかわらず、年貢は跳ね上がる一方だった。厳しい取り立てに耐えられず、新しい天地を求めて逃げ出す百姓が多かった。
 小坊主が生まれた頃、故郷は大きな村だった。辺り一面、田畑が広がり、作物が豊富に稔っていたのに、今は田畑よりも荒れ地の方が多く、人の住む家よりも空き家の方が多いという有り様だった。
 荒れた田畑に赤とんぼが気持ちよさそうに飛び回っていた。小坊主はニヤッと笑って、赤とんぼを捕まえようとしたが、急に手を止めると、「おっ母たちは無事だろうか」とつぶやいた。
 小坊主は急に心配になり、急いで我が家へと向かった。
 それからしばらくして、木陰に隠れ、うずくまっている小坊主の姿があった。さっきの陽気な顔とは打って変わって、泣きべそをかいている。涙に潤んだ目は畑で働く女の姿をじっと見つめていた。
 色あせた野良着を着た女は額の汗を拭きながら腰を曲げて草むしりをしている。年の頃はまだ三十前後なのに、苦労が耐えないのか、栄養が足らないのか顔色はさえなかった。
「おっ母‥‥‥」と小坊主はつぶやいた。木陰から身を乗り出し、今にも飛び出しそうだったが、じっと耐えていた。
 母親と少し離れて、鍬を持った父親が働いている。小坊主は父親の方をチラッと見ただけで母親の姿に見入っていた。
「おっかさーん」と誰かが呼んだ。
 小坊主は声のした方を見た。
 竹槍をかついだ若者が母親のもとに駈け寄って来た。長い髪を無造作に束ね、継ぎだらけの着物に太めの縄を帯代わりに締め、腰に脇差を差している。格好は男でも顔付きは若い娘だった。
「姉ちゃん、相変わらずだなあ‥‥‥」
 姉を見つめる小坊主の目から涙があふれ出した。
 母と姉は笑いながら話をしていた。そこに汗を拭きながら父親が加わった。母が急にこちらの方に振り向いた。
 小坊主は慌てて身を伏せた。
「藤吉はどうしてるかねえ。いじめられとりゃせんかの」と母の声が聞こえた。
「大丈夫だ。喧嘩の仕方は俺がちゃんと教えたから、いじめられやせん」と姉が拳(こぶし)を振り上げた。
「馬鹿言うな」と父親が姉を睨んだ。「喧嘩させるために、お寺に入れたんじゃねえわ。学問をしっかりと身に付けてもらわなけりゃ困る」
「でも、あの子はじっとしてるのが苦手だからね、お寺さんに迷惑をかけなければいいんだけど‥‥‥」
「おっかさん、心配のし過ぎだ。あいつは結構、ずる賢いから、うまくやってるよ」
 三人はしばらく夕焼けを眺めていた。
「藤吉、負けんじゃねえぞ」と姉が急に大声で叫んだ。
 思わず返事をしそうになって、藤吉は慌てて口を押さえた。
 母と姉は並んで家の方に帰って行った。父親は夕焼けに向かって両手を合わせ、頭を下げると二人の後を追った。三人の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、藤吉は頬を流れる涙を拭いた。
「トーキチ」と後ろで誰かが呼んだ。
 ビクッとして振り返ると若い女が立っていた。笹の葉を振り回しながら大口を開けてケラケラ笑っている。
「馬鹿、脅かすな」と藤吉は鼻水をすすった。
「トーキチ、トーキチ」と歌うように言いながら、女は夢見るように舞っていた。
 おきた観音と呼ばれている女だった。観音と呼ばれるにふさわしい美しい顔をしているのに、頭はちょっといかれていた。どうして狂ってしまったのか知らないが、藤吉が物心ついた頃には、すでに狂っていた。
 寺に入れられる前は、近所の子供たちと一緒に、おきた観音をからかって遊んでいたが、村に帰って来た途端に、こんな所で会うとは驚きだった。
 おきた観音は相変わらず綺麗な着物を着ていても、相変わらずだらしがなかった。襟が開いて乳房がのぞき、裾は割れて足が丸見えだった。
「おめえなあ、そんな格好してると、兄(あに)さんたちにまた悪さされるぞ」
 藤吉はおきた観音を捕まえると着物を直してやった。おきた観音は笑うのをやめて、おとなしく言いなりになっている。
「おめえは観音様なんだからな、ちゃんとしてなきゃ駄目だ」

更新日:2011-05-14 13:20:44

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