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「625、625……」
 エレベーターを降り、指定された部屋を探す。さすがは高級ホテルなだけあり、廊下には赤い絨毯が敷き詰められており、早足で歩いてもコトとも足音が響かなかった。恵也は壁に貼られている号室の案内板を見ながら奥へ進むと、やがて廊下の一番突き当たりに目的の部屋を見つけて足を止める。
(あっと……)
 コンコンとドアをノックしてしまってから、沢村にメールしなかったことを思い出す。
(まあ、いいか)
 部屋番号までは教えなかったが、フロント係は恵也が打ち合わせのために客室に向かったことを知っている。そのことをフロントから聞けば、すぐに恵也の携帯電話に連絡してくるだろう。
(それに……)
 恵也が一人で現れた方が橘も喜ぶかもしれない。橘に会うのは、先日ヘッドハンティングを断って以来である。いくぶん鼓動を速めながらネクタイの位置を直したその時、目の前でカチャッと鍵の開く音がして扉が内側に開いた。
「……?」
 てっきり黒部の部下が出て来るのだろうと思っていた恵也は、ちょっと驚いて目を見開く。目の前にはスーツではなくピチピチの黒いランニングシャツに包まれた男の胸筋があった。胸板が恐ろしく厚くて、肌の色が浅黒い。Uの字に大きく開いたシャツの胸元や脇の下から覗く茶色い剛毛にギョッとしながら顔を上げた恵也は、その大男が目と鼻と口の部分にだけ穴の開いた黒い覆面を被っているのを見ると、咄嗟に後ろに逃げようとした。しかし、一瞬早く男の丸太のような腕が伸びて恵也の胸倉をガシッと掴む。
「離せッ……!」
 叫ぼうとした途端に、反対の手で口を塞がれる。そして、恵也はもの凄い力で引っ張られると、部屋の中に引きずり込まれた。
「んーッ、んーッ」
 何をするんだ、と叫ぼうとしても、太い五本の指で鼻から口まで塞がれているので言葉にならない。
「やめろッ……!」
 男の手が離れた隙にようやく叫び声を上げた恵也は、しかし次の瞬間いきなり頭部をガッと掴まれた。
「ウアッ……!」
 視界がブレたと思った瞬間、側頭部に衝撃が走る。あまりの激痛に一瞬意識が飛んだのだろう。気が付くと、床の上に横向きに倒れていた。
「ウッ……」
 呻きながら体を起こそうとした途端、ベージュ色の絨毯の上に赤い血がパタパタと落ちる。こめかみが燃えるように熱いので、どうやら壁に叩き付けられた時に目蓋の縁が切れたらしい。
(逃げなくちゃ……)
 恵也は必死に顔を上げ、男の足の間から廊下の赤い絨毯を見る。その目の前で、自由へと続く扉が無情にもバタンと閉じた。

更新日:2012-09-24 21:48:06

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