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+再会の娘+
雨があがった後、しばらくは道中なにごともなく、彼は牛車とともに大きな街道筋から外れ、夏の終わりの涼しい風の吹き渡る、ちいさな土手道を進んでいた。
夏から秋に差し掛かろうというこの季節の川辺では、トンボがたくさん空を舞っている。子どものころ、従兄妹たちと連れだって領館近くの草地でトンボ取りをして遊んだことをなんとなく思い出しながら歩いていると、行く手の道端に、ぽつりと人影が座り込んでいるのが見えた。
……あれ?
「――こんなところでどうしたんだ?」
「あ……牛飼いさん」
見れば、先ほど握り飯を分けてくれたあの少年だった。衣や手足は泥だらけで、背負っていた荷が消え失せている。見れば、肘や膝も擦りむいてうっすらと血が滲んでいるようだった。彼は慌てて呆然と座り込む少年に駆け寄ると腕を取り、その身を引き起こした。
「どうした!? 誰かに襲われたのか!?」
「うん……。見とれてたら、足が滑って……そのままザザーッと」
「は? ……見とれてた?」
「あれ、見てよ~」
指さす先には、つい先ほど彼も眺めていたトンボが空をスイスイと泳いでいる。瀬に向かって一匹のトンボがふたりの目の前を風に乗り、スウ……ッと滑り降りていく姿を何気なく目で追い、土手下が視界に入った瞬間、彼は視線を釘付けにし、見るに堪えないその惨状から思わず目をそらした。
「……おい。あれ……おまえの荷か?」
「はい……そうです」
「まさか、おまえ……トンボに見とれて、荷と一緒に転がり落ちたのか!?」
「だって! 目の前をどんどん飛んでいくから! ……その、つい……ね?」
「…………」
確かにすぐ傍の地面には、ぬかるみに足を取られて滑ったような跡があり、その先の不自然に乱れた草むらの続く土手下には、先ほど目にした反物が無惨にも辺り一帯にぶちまけられているのが見えた――既にもう、それらの色は白絹だということさえ判別し難いものだったが。
「相当酷いな……織部に戻ったら、間違いなく吊されるぞあれは。どうすんだ?」
「うわーん!! ねえ、どうしたらいいー!?」
「どうしたらって……おまえさっき、余ってるって言ってただろう!?」
「余ってるって言ったって、あんなにたくさんあるわけないよ! 仕立てて納めても、ちゃんと着てくださるのかもわからないのに!! 数だけ納めてなんになるっていうの!?」
半ばヤケクソで叫ぶ涙混じりの声に、彼は呆れて言葉も出ず、代わりに溜息をついた。
「おい……仮にもおまえ、織部の者が……それなら鳴海の領主にでも頼んで、納めた分を返してもらえよ!」
「ご領主様に、納めた品を返せなんて言える小作民がどこにいるって言うの!? そんなの竜王様でもない限り、絶対無理に決まってるもんー!!」
泥だらけの姿で号泣しはじめた少年に、思わず彼は深い溜息をつき、少年の傍を離れて足場の良い場所を探しながら草地で覆われた土手の斜面をガサガサと下りて行った。
「……牛飼いさん?」
袖で涙を拭い、問いかけてきた声に、彼は生い茂る草地を踏み分けながら背中越しに言葉を返した。
「とにかく全部集めるぞ。おまえも手ぶらじゃ帰れないし、このままにはしておけないだろう? 人目に触れたら、それこそ大騒ぎになるに決まってる」
雨あがりの川縁でぬかるみに放り出され、べったりと泥を纏った白絹の反物のなれの果てに顔を青ざめつつ、散らばった荷を拾い出した彼の後を追って、少年も土手をくだってきた。
「とにかくおまえ、先に手足を洗ってこい。まだまともな物もあるかも知れないから、とにかく全部拾いあげて俺の荷車に積んでおけ。のんびりしてたら日が暮れる。急げよ」
「うぅ……。はいー」
他人事とはいえ、あまりにも悲惨な状況に慰める言葉さえ見つからず、彼はとりあえず少年とともに散らばった荷をすべて拾いあげると、土手道まで戻り、泥まみれの反物をもとどおりに包み直して荷台に載せた。
結局、拾い集めた反物はどれも使い物にならず、陽が大きく傾いて微かな夕焼けに空が染まりはじめるころ、彼はふたたび鳴海郷へと牛を引いて歩きだした。
夏の終わりはまだ日が長く、よほど夜が深くならなければ旅人も先を急げる季節だった。こんなにきれいな夕焼けが見られるのなら、もう雨の心配もない。
牛車の傍らを沈んだ顔でトボトボと歩く少年の手には、一本のかざぐるまが握られている。
背負っていた荷がすべて泥の中に投げ出された中、奇跡的にそのかざぐるまだけは、草地の上に落ちて汚れることを避けられたのだ。
ゆっくり進んでいく牛車に、最初はついてきていた少年の歩みが、しばらく経つと少しずつ遅れはじめた。
雨があがった後、しばらくは道中なにごともなく、彼は牛車とともに大きな街道筋から外れ、夏の終わりの涼しい風の吹き渡る、ちいさな土手道を進んでいた。
夏から秋に差し掛かろうというこの季節の川辺では、トンボがたくさん空を舞っている。子どものころ、従兄妹たちと連れだって領館近くの草地でトンボ取りをして遊んだことをなんとなく思い出しながら歩いていると、行く手の道端に、ぽつりと人影が座り込んでいるのが見えた。
……あれ?
「――こんなところでどうしたんだ?」
「あ……牛飼いさん」
見れば、先ほど握り飯を分けてくれたあの少年だった。衣や手足は泥だらけで、背負っていた荷が消え失せている。見れば、肘や膝も擦りむいてうっすらと血が滲んでいるようだった。彼は慌てて呆然と座り込む少年に駆け寄ると腕を取り、その身を引き起こした。
「どうした!? 誰かに襲われたのか!?」
「うん……。見とれてたら、足が滑って……そのままザザーッと」
「は? ……見とれてた?」
「あれ、見てよ~」
指さす先には、つい先ほど彼も眺めていたトンボが空をスイスイと泳いでいる。瀬に向かって一匹のトンボがふたりの目の前を風に乗り、スウ……ッと滑り降りていく姿を何気なく目で追い、土手下が視界に入った瞬間、彼は視線を釘付けにし、見るに堪えないその惨状から思わず目をそらした。
「……おい。あれ……おまえの荷か?」
「はい……そうです」
「まさか、おまえ……トンボに見とれて、荷と一緒に転がり落ちたのか!?」
「だって! 目の前をどんどん飛んでいくから! ……その、つい……ね?」
「…………」
確かにすぐ傍の地面には、ぬかるみに足を取られて滑ったような跡があり、その先の不自然に乱れた草むらの続く土手下には、先ほど目にした反物が無惨にも辺り一帯にぶちまけられているのが見えた――既にもう、それらの色は白絹だということさえ判別し難いものだったが。
「相当酷いな……織部に戻ったら、間違いなく吊されるぞあれは。どうすんだ?」
「うわーん!! ねえ、どうしたらいいー!?」
「どうしたらって……おまえさっき、余ってるって言ってただろう!?」
「余ってるって言ったって、あんなにたくさんあるわけないよ! 仕立てて納めても、ちゃんと着てくださるのかもわからないのに!! 数だけ納めてなんになるっていうの!?」
半ばヤケクソで叫ぶ涙混じりの声に、彼は呆れて言葉も出ず、代わりに溜息をついた。
「おい……仮にもおまえ、織部の者が……それなら鳴海の領主にでも頼んで、納めた分を返してもらえよ!」
「ご領主様に、納めた品を返せなんて言える小作民がどこにいるって言うの!? そんなの竜王様でもない限り、絶対無理に決まってるもんー!!」
泥だらけの姿で号泣しはじめた少年に、思わず彼は深い溜息をつき、少年の傍を離れて足場の良い場所を探しながら草地で覆われた土手の斜面をガサガサと下りて行った。
「……牛飼いさん?」
袖で涙を拭い、問いかけてきた声に、彼は生い茂る草地を踏み分けながら背中越しに言葉を返した。
「とにかく全部集めるぞ。おまえも手ぶらじゃ帰れないし、このままにはしておけないだろう? 人目に触れたら、それこそ大騒ぎになるに決まってる」
雨あがりの川縁でぬかるみに放り出され、べったりと泥を纏った白絹の反物のなれの果てに顔を青ざめつつ、散らばった荷を拾い出した彼の後を追って、少年も土手をくだってきた。
「とにかくおまえ、先に手足を洗ってこい。まだまともな物もあるかも知れないから、とにかく全部拾いあげて俺の荷車に積んでおけ。のんびりしてたら日が暮れる。急げよ」
「うぅ……。はいー」
他人事とはいえ、あまりにも悲惨な状況に慰める言葉さえ見つからず、彼はとりあえず少年とともに散らばった荷をすべて拾いあげると、土手道まで戻り、泥まみれの反物をもとどおりに包み直して荷台に載せた。
結局、拾い集めた反物はどれも使い物にならず、陽が大きく傾いて微かな夕焼けに空が染まりはじめるころ、彼はふたたび鳴海郷へと牛を引いて歩きだした。
夏の終わりはまだ日が長く、よほど夜が深くならなければ旅人も先を急げる季節だった。こんなにきれいな夕焼けが見られるのなら、もう雨の心配もない。
牛車の傍らを沈んだ顔でトボトボと歩く少年の手には、一本のかざぐるまが握られている。
背負っていた荷がすべて泥の中に投げ出された中、奇跡的にそのかざぐるまだけは、草地の上に落ちて汚れることを避けられたのだ。
ゆっくり進んでいく牛車に、最初はついてきていた少年の歩みが、しばらく経つと少しずつ遅れはじめた。
更新日:2011-04-25 20:46:02