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+領館の若君+



「――拓陸ぼっちゃま。よろしいでしょうか?」

「ん。……あぁ、千代さんか。なに?」

 失礼いたします。

 声とともに、鳴海家の世話を勤める女官頭が現れた。
 何気なく振り返り、千代が手にしていたものに思わず視線が釘づけになる。

「――それ、なんでここに……?」

「はぁ……それが今朝方、お屋敷の前で行き倒れになっていた方が『鳴海拓陸様にお会いしたい』と申されまして……。ぼっちゃまとの御面識もおありでないとのことでしたので、何度もお断りをしているのですが、これを見せれば、必ず会ってくれるはずだからと……いかがなされますか?」

「行き倒れって……。その者の身なりは?」

 拓陸の母の子守として鳴海家の屋敷にあがり、すでに老境に差しかかろうかという千代はゆっくりと頬に手をあて、少し考え込むような眼差しで頷いた。
 
「そうですねえ……まだ若い娘ですよ。ただ、いつものように、ぼっちゃまにお目通りを願いに集ってくるこの辺りの娘達よりも、幾分か幼い出で立ちのようにお見受けいたしました。それに、そのような娘が供もなく、ひとりでこちらの領館になどと、よほどの事情がおありなのでございましょう? ですから、まず先に、お炊場にお連れしてございます」

「炊場? ……俺に会いにきたんじゃないの?」

 なんで、飯?

「はい。なんでも、丸一日なにも食べていないとのことで、傍で見張る者が、自分が襲われてその場で食われるのではと、怯えきった様子で再三訴えてまいりましたもので」

 ……若い娘、か。さすがにこの館に、あの身なりでは来られなかったか。確かに、あいつの食欲で一日飲まず食わずなら、誰かを襲って食らいついても、おかしくないかも知れない。

 拓陸は心の中で妙に納得すると、控えている千代に顔を向けた。

「わかった。一応、俺の知り合いだから、飯が終わったら控えの間まで通しておいてもらえる?」

「わかりました。ではそのように」

「うん」

 千代はその場にかざぐるまを置き、静かに下がって行った。
 拓陸は机から離れ、板間に置かれたかざぐるまのもとまで近づくと、拾いあげてじっと眺めた。

「……もう来たのか。思ったより早かったな」

 ――あいつ、俺をどっちだと思って、ここまできたんだろう?

 あの日、彼は娘に自分が何者なのかを、とうとう明かさないまま別れてきた。隠そうと思ったわけではないが、自ら鳴海家に縁の者だと敢えて名乗るのもなんとなく居心地が悪く、うやむやに誤魔化したまま話す機会を逸したというなりゆきだったのだ。
 天帝に献じる白絹の反物を、鳴海に縁の者の目の前で駄目にしてしまったと、あの娘がもし知ったら。

「いや……意外と普通かもな。あいつなら」

 なんといっても、虫に気をとられて大切な反物もろとも土手から転がり落ちるような奴だ。

 あの時の泥だらけの娘の顔を思い出し、不謹慎ながらもつい彼はふきだしてしまった。退屈なはずの都からの帰り道で、まさかあんな出来事に出会すとは思ってもみなかったのだ。あの娘には申し訳ないが、おかげで帰りの道中は結構楽しかった。

 彼の心中とは裏腹に、織部に近づくほど憂いを深め、落ち込んでいた娘。
 はじめは他人の厄介事に関わるつもりはなかったのだが、なんとなく娘と言葉を交わすうちに、自分が伯父にことを頼みさえすれば娘の悩みは消えるのだと気づいてからは、目の前で娘が激しく落ち込めば落ち込む程、逆に彼は楽観的な気分になっていった。そして領館に到着後、直ちに伯父に申し出て四十あまりの反物を分けてもらい、翌日、伯父の名代で出かける際に織部に立ち寄り、娘に置き土産をしていったのだ。ただひとつ、一本のかざぐるまを目印に。

 ――そういえば俺、なんで……あのかざぐるまを置いていったんだ?

 咄嗟に思いついてしたことは、彼自身にも理由がよくわからなかった。結局彼は、荷を届けたのがあの娘に縁の者であることを織部の民に示すためだと、深くは考えずにその件を結論づけ、かざぐるまを手に再び机に戻っていった。


「拓陸ぼっちゃま。先ほどの、山野辺紬(やまのべつむぎ)様が控えの間に」

「……あぁ、うん」

 どのくらい時間が経ったのか、障子越しの千代の声で、ふっと読んでいた書物から意識が戻った拓陸は、立ちあがると自らの装いを眺めて呟いた。

「……なんか、いかにもって感じか?」

 替えるか。と彼は身なりをもう少し簡素な衣に替えると、自室を出て隣の控えの間に足を向けた。

更新日:2011-04-25 20:55:31

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