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+鳴海郷+
その後、しばらく川沿いを進んだ牛車は、街道の分かれ道に差し掛かった。
鳴海郷に近づくにつれ、憂い顔を深めていた娘は、ちいさく溜息をつくと諦めたように顔をあげた。
「牛飼いさん、もうここでいいよ。あとはひとりでも帰れるし」
「そんな足でそんな大荷物で、どうやってここから歩くんだ? いいから乗ってろ。鳴海の織部なら俺も通り道だから」
「でも、もうこの先には宿もないでしょ? どうするの?」
「俺のことはいいから、ひとの心配よりもその泥まみれの荷の言いわけでも考えてろよ」
「やっぱり……みんな、怒るかなぁ……?」
「とりあえず、泣いて喜ぶ奴はいないだろうな」
呆れて溜息をつく彼の言葉に、娘は怯えるようにちいさく身震いをした。
「うぅぅ……。凪沙兄様が一番こわいよぅ」
「あぁ。おまえを先に帰らせた兄貴か? ……まぁそいつも自業自得だな。虫に見とれて土手から転がり落ちるような奴に、大切な荷を預けたのがそもそもの間違いだ」
淡々とした表情で牛車を引いて歩く彼の言葉に、娘は闇に沈んだ田畑に淡く灯りはじめた星々を見つめながら、ちいさくぽつりと呟いた。
「このまま新しい反物が用意できなかったら……やっぱり下界に追放なのかな?」
そんな言葉を口にするまでに落ち込んでしまった娘の姿に、彼は少し驚き、直後になぜか愉快そうな口ぶりで答えた。
「下には、こことは違う世界があるって言うしな。それも結構楽しいんじゃないか? 下界にくだった女は天女とか呼ばれて、大切にされるらしいから――その身なりじゃ、わかりにくいだろうけど」
「ちょっと! ひとが本気で悩んでるのに、なんで笑うの!? それに身なりになんの……ええぇっ!? なんでっ!?」
自分の身なりについてさらりと言及され、目を剥いて仰天する娘の動揺など、どこ吹く風とばかりに彼は笑うと、前を向いたまま傍らの牛の頭を撫でた。
「――まぁそこまで巧く化けられれば、大抵の者は気づかないだろうな。……おい、騒ぐのもほどほどにしておけよ。そろそろ着くぞ。仲間にそのご立派な荷を見られても平気なのか?」
「……鳴海の中でも今まで一度も気づかれなかったのに……なんで?」
自らの身なりを見つめ、心外そうにブツブツと呟いていた娘は、傍らで揺れる無惨に汚れた荷に肩を落とした。
「これ、みんなになんて言おう……?」
正体をあっさりと見抜かれたうえに、汚れた荷のためにさらに心を重くした娘が落ち込めば落ち込むほど、彼は上機嫌になるようで、街道を行く道々、鼻唄を歌いながら娘を乗せた荷車を牛とともに引き続けた。
やがて街道から離れた道を行く彼らは、鳴海郷の中に入った。夕暮れの郷中の道は行き交う者もなく、ゆるゆると道を進むうちに、ついに織部の集落がふたりの行く手に現れた。
「――ほら、着いたぞ。いきなりその荷を目にしたら、おまえの仲間は皆揃って首を括るだろうから、俺が先に事情を話してきてやる。その代わりに、ここでこいつを見ていてくれないか? 荷の中に飼い葉があるから、食わせてやってくれ。ひとから譲り受けた大切な牛だから、ちゃんと見張ってろよ」
牛を見やってそう言い残すと、彼は織部で最も大きな構えを持つ長の家へと歩いて行った。
「飼い葉……?」
荷車の覆いを持ちあげ荷の中を覗くと、整然と積まれた柳行李にはどれもぎっしりと分厚い書物が詰まっていた。そのいくつかの中を覗いた後、麻袋に入った飼い葉が積まれているのを見つけた娘は、麻袋を牛の顔の前まで引き摺っていき、袋の口を大きく開いた。
牛は娘の顔を見つめて何度かまばたきをし、ゆっくりと娘に近寄ると麻袋に顔を突っ込み、そのまま中の飼い葉を食みはじめた。
「……大丈夫かなぁ? 牛飼いさん」
彼の消えた先が気になるものの、牛から目を離してもし逃げられでもしたら、今度は牛飼いさんに殺されちゃう。と娘は麻袋の底に残っていた飼い葉を、地面にすべて空けた。
牛飼いにとって、牛は自らの身代のすべてに等しく、道中の彼もこの牛をとても大切にしているように娘には思えたのだ。
夕闇が少しずつ深くなる中、牛は時折、尾を振りながらもくもくと飼い葉を食んでいる。娘は牛の首を撫でながら、遠くに瞬く長の家の光を窺った。
間もなく長の家の戸が開き、何やら言い交わしあう声とともに彼が戸口から出てくるのが見えた。長は彼に向かって何かを言い、しばらくの間、戸口に立ってこちらへと向かってくる彼の姿を見送った後、家の中へと姿を消した。
その後、しばらく川沿いを進んだ牛車は、街道の分かれ道に差し掛かった。
鳴海郷に近づくにつれ、憂い顔を深めていた娘は、ちいさく溜息をつくと諦めたように顔をあげた。
「牛飼いさん、もうここでいいよ。あとはひとりでも帰れるし」
「そんな足でそんな大荷物で、どうやってここから歩くんだ? いいから乗ってろ。鳴海の織部なら俺も通り道だから」
「でも、もうこの先には宿もないでしょ? どうするの?」
「俺のことはいいから、ひとの心配よりもその泥まみれの荷の言いわけでも考えてろよ」
「やっぱり……みんな、怒るかなぁ……?」
「とりあえず、泣いて喜ぶ奴はいないだろうな」
呆れて溜息をつく彼の言葉に、娘は怯えるようにちいさく身震いをした。
「うぅぅ……。凪沙兄様が一番こわいよぅ」
「あぁ。おまえを先に帰らせた兄貴か? ……まぁそいつも自業自得だな。虫に見とれて土手から転がり落ちるような奴に、大切な荷を預けたのがそもそもの間違いだ」
淡々とした表情で牛車を引いて歩く彼の言葉に、娘は闇に沈んだ田畑に淡く灯りはじめた星々を見つめながら、ちいさくぽつりと呟いた。
「このまま新しい反物が用意できなかったら……やっぱり下界に追放なのかな?」
そんな言葉を口にするまでに落ち込んでしまった娘の姿に、彼は少し驚き、直後になぜか愉快そうな口ぶりで答えた。
「下には、こことは違う世界があるって言うしな。それも結構楽しいんじゃないか? 下界にくだった女は天女とか呼ばれて、大切にされるらしいから――その身なりじゃ、わかりにくいだろうけど」
「ちょっと! ひとが本気で悩んでるのに、なんで笑うの!? それに身なりになんの……ええぇっ!? なんでっ!?」
自分の身なりについてさらりと言及され、目を剥いて仰天する娘の動揺など、どこ吹く風とばかりに彼は笑うと、前を向いたまま傍らの牛の頭を撫でた。
「――まぁそこまで巧く化けられれば、大抵の者は気づかないだろうな。……おい、騒ぐのもほどほどにしておけよ。そろそろ着くぞ。仲間にそのご立派な荷を見られても平気なのか?」
「……鳴海の中でも今まで一度も気づかれなかったのに……なんで?」
自らの身なりを見つめ、心外そうにブツブツと呟いていた娘は、傍らで揺れる無惨に汚れた荷に肩を落とした。
「これ、みんなになんて言おう……?」
正体をあっさりと見抜かれたうえに、汚れた荷のためにさらに心を重くした娘が落ち込めば落ち込むほど、彼は上機嫌になるようで、街道を行く道々、鼻唄を歌いながら娘を乗せた荷車を牛とともに引き続けた。
やがて街道から離れた道を行く彼らは、鳴海郷の中に入った。夕暮れの郷中の道は行き交う者もなく、ゆるゆると道を進むうちに、ついに織部の集落がふたりの行く手に現れた。
「――ほら、着いたぞ。いきなりその荷を目にしたら、おまえの仲間は皆揃って首を括るだろうから、俺が先に事情を話してきてやる。その代わりに、ここでこいつを見ていてくれないか? 荷の中に飼い葉があるから、食わせてやってくれ。ひとから譲り受けた大切な牛だから、ちゃんと見張ってろよ」
牛を見やってそう言い残すと、彼は織部で最も大きな構えを持つ長の家へと歩いて行った。
「飼い葉……?」
荷車の覆いを持ちあげ荷の中を覗くと、整然と積まれた柳行李にはどれもぎっしりと分厚い書物が詰まっていた。そのいくつかの中を覗いた後、麻袋に入った飼い葉が積まれているのを見つけた娘は、麻袋を牛の顔の前まで引き摺っていき、袋の口を大きく開いた。
牛は娘の顔を見つめて何度かまばたきをし、ゆっくりと娘に近寄ると麻袋に顔を突っ込み、そのまま中の飼い葉を食みはじめた。
「……大丈夫かなぁ? 牛飼いさん」
彼の消えた先が気になるものの、牛から目を離してもし逃げられでもしたら、今度は牛飼いさんに殺されちゃう。と娘は麻袋の底に残っていた飼い葉を、地面にすべて空けた。
牛飼いにとって、牛は自らの身代のすべてに等しく、道中の彼もこの牛をとても大切にしているように娘には思えたのだ。
夕闇が少しずつ深くなる中、牛は時折、尾を振りながらもくもくと飼い葉を食んでいる。娘は牛の首を撫でながら、遠くに瞬く長の家の光を窺った。
間もなく長の家の戸が開き、何やら言い交わしあう声とともに彼が戸口から出てくるのが見えた。長は彼に向かって何かを言い、しばらくの間、戸口に立ってこちらへと向かってくる彼の姿を見送った後、家の中へと姿を消した。
更新日:2011-04-25 20:49:36