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第一章 序 +鄙の河原+
チチッ……ピッ
高くそびえ立つ木々の向こうに薄青い空が広がり、生い茂る葦やススキの根もとでは、先ほどから小鳥のさえずりと、ちいさく羽ばたく柔らかな羽音が続いている。
乾いた陽光が拓けた河原を明るく照らし、微かな風に揺れる葦原が織りなす斑(まだら)模様が、閉じられた瞼の向こうでチラチラと揺れては踊る。
仰向けに寝転んで両腕を枕に、ウトウトと心地良い眠りに落ちかけたころ、下草を踏んで近づいてくる足音に気がついた。
規則正しく下草を踏む足音が急にゆるんでピタリと止まり、じっと何かを窺っている気配がする。
彼が静かに身を起こすと、草むらの向こうで、身を屈め息を潜めて葦の茂みを覗き込んでいる姿が見えた。
「……?」
やっときたか。……って、鳥に夢中で、こっちはまるっきり無視か?
石のように動かなくなってしまった娘は、彼の目の前でそっと河原の砂地に手をつくと、這いつくばったまま少しずつ茂みの中へと進み出した。
「おい、なにやって……?」
――しっ!
“静かに。逃げちゃう”
唇の動きだけでそう言うと、こっちにこい。とでも言うように、娘はひらひらと手まねきをした。
「……?」
言われるままに静かに娘に近づき、草地の上に腰をおろすと、草むらを覗き込んでいた娘は、あ。と瞳を丸くして笑みを浮かべた。
“こっち、こっち。ここからなら見えるから。早く”
必死に口伝えようとする娘の様子に、彼は訝しげな顔で茂みのほうを窺い、そっと覗き込んだ。
“ほら、見て? あれ”
娘が指さす先、草むらには小鳥が忙(せわ)しなく出入りしているのが見える。よく見ると茂みの中に、ちいさなくちばしが餌をせがんでしきりに鳴く様が見え隠れしているのが見てとれた。
“鳥の巣があったのか。どうりで羽音が近いと思った”
“地面に巣を作っても大丈夫なの? 山犬に襲われたりしない?”
“ヒタキか何かだな。あれはそういう種類の鳥だ。わざわざ襲われるような場所に、巣を作ったりはしない。どうりでやたらと鳴くわけだ。雛がいたのか”
“みて? 食べる時の顔……全部口になってる。すご~い”
「よだれ出てるぞ」
「あら? ……あ!」
チッ、ピピ……ッ
「――あ~ぁ、いっちゃった」
残念。
川のほうに飛び去る鳥たちを見送った娘は、もう一度伸び上がるように草むらの砂地の巣に残された雛を眺めると、衣についた砂を払い、勢いよく立ち上がった。
同じように立ち上がり川辺を見渡す彼に、少しちいさな声が聞こえてきた。
「――ただいま」
眩しそうに見上げるその笑みに、思わず彼の頬が緩んだ。
「あぁ。今年は川に落ちなかったんだな?」
「いつも落ちてるわけじゃないもの。あの時は大荷物があったし」
最近は機織りの調子も良かったし、もう少しできれいに仕上がるの。できあがったらご領主様のお屋敷にお持ちしようと思って。
娘はそう言って笑うと、突然両手を広げて彼に抱きついてきた。
「ねえ、旦那様? 一年ぶりに妻に会えて、嬉しい?」
「そう言うおまえは、一年ぶりに会う俺よりも、鳥の巣に夢中だったんだろ?」
不機嫌さも露わに彼が答えると、娘は、だって可愛かったでしょ? と楽しげに巣のあるほうを眺めながら、彼の胸に頬を押し付け、匂いを嗅いだ。
「ん~、これこれ。この郷と、あなたの懐かしい匂いがする。こうすると帰ってきたなぁって実感するわー」
「……相変わらず、安あがりだな」
――それでも仕方ない。こいつのこの癖は、離れて暮らす前からだから。
都の任を離れ、毎日ただ同じことを繰り返す生活に戻ろうとしていた俺の前に、突然現れた娘。
様々な事情に振り回されながら、互いの心に触れるうち、気がつけば誰よりも傍にいることを望むようになっていた。
都人がこぞって欲する機織りの腕前で、この世にふたつとない見事な布地を織りあげていく。その楽しげな姿を眺めることが、あのころはなによりも幸せだった。
その突出した機織りの才能は、いつしか人々の噂に登って天帝の耳に届き、誉れある織り姫――織女として天帝に仕える役目を与えられた。その任期を終えるまでは、こうして離れて暮らさなくてはならないけれど、新しく織りあげた布を携え、年に一度、川を渡ってこの郷に戻ってくるこの時だけは、誰にかばかることなく、堂々と迎えに行ける。
「――ん? 少し、背が伸びたんじゃないか?」
「へへ。でしょ? このあいだもね、衣の裾を直したの」
得意そうな笑い声と懐かしい感触に埋もれるように、彼は瞳を閉じたまま、陽光を吸い込む暖かな背を抱きしめた。
チチッ……ピッ
高くそびえ立つ木々の向こうに薄青い空が広がり、生い茂る葦やススキの根もとでは、先ほどから小鳥のさえずりと、ちいさく羽ばたく柔らかな羽音が続いている。
乾いた陽光が拓けた河原を明るく照らし、微かな風に揺れる葦原が織りなす斑(まだら)模様が、閉じられた瞼の向こうでチラチラと揺れては踊る。
仰向けに寝転んで両腕を枕に、ウトウトと心地良い眠りに落ちかけたころ、下草を踏んで近づいてくる足音に気がついた。
規則正しく下草を踏む足音が急にゆるんでピタリと止まり、じっと何かを窺っている気配がする。
彼が静かに身を起こすと、草むらの向こうで、身を屈め息を潜めて葦の茂みを覗き込んでいる姿が見えた。
「……?」
やっときたか。……って、鳥に夢中で、こっちはまるっきり無視か?
石のように動かなくなってしまった娘は、彼の目の前でそっと河原の砂地に手をつくと、這いつくばったまま少しずつ茂みの中へと進み出した。
「おい、なにやって……?」
――しっ!
“静かに。逃げちゃう”
唇の動きだけでそう言うと、こっちにこい。とでも言うように、娘はひらひらと手まねきをした。
「……?」
言われるままに静かに娘に近づき、草地の上に腰をおろすと、草むらを覗き込んでいた娘は、あ。と瞳を丸くして笑みを浮かべた。
“こっち、こっち。ここからなら見えるから。早く”
必死に口伝えようとする娘の様子に、彼は訝しげな顔で茂みのほうを窺い、そっと覗き込んだ。
“ほら、見て? あれ”
娘が指さす先、草むらには小鳥が忙(せわ)しなく出入りしているのが見える。よく見ると茂みの中に、ちいさなくちばしが餌をせがんでしきりに鳴く様が見え隠れしているのが見てとれた。
“鳥の巣があったのか。どうりで羽音が近いと思った”
“地面に巣を作っても大丈夫なの? 山犬に襲われたりしない?”
“ヒタキか何かだな。あれはそういう種類の鳥だ。わざわざ襲われるような場所に、巣を作ったりはしない。どうりでやたらと鳴くわけだ。雛がいたのか”
“みて? 食べる時の顔……全部口になってる。すご~い”
「よだれ出てるぞ」
「あら? ……あ!」
チッ、ピピ……ッ
「――あ~ぁ、いっちゃった」
残念。
川のほうに飛び去る鳥たちを見送った娘は、もう一度伸び上がるように草むらの砂地の巣に残された雛を眺めると、衣についた砂を払い、勢いよく立ち上がった。
同じように立ち上がり川辺を見渡す彼に、少しちいさな声が聞こえてきた。
「――ただいま」
眩しそうに見上げるその笑みに、思わず彼の頬が緩んだ。
「あぁ。今年は川に落ちなかったんだな?」
「いつも落ちてるわけじゃないもの。あの時は大荷物があったし」
最近は機織りの調子も良かったし、もう少しできれいに仕上がるの。できあがったらご領主様のお屋敷にお持ちしようと思って。
娘はそう言って笑うと、突然両手を広げて彼に抱きついてきた。
「ねえ、旦那様? 一年ぶりに妻に会えて、嬉しい?」
「そう言うおまえは、一年ぶりに会う俺よりも、鳥の巣に夢中だったんだろ?」
不機嫌さも露わに彼が答えると、娘は、だって可愛かったでしょ? と楽しげに巣のあるほうを眺めながら、彼の胸に頬を押し付け、匂いを嗅いだ。
「ん~、これこれ。この郷と、あなたの懐かしい匂いがする。こうすると帰ってきたなぁって実感するわー」
「……相変わらず、安あがりだな」
――それでも仕方ない。こいつのこの癖は、離れて暮らす前からだから。
都の任を離れ、毎日ただ同じことを繰り返す生活に戻ろうとしていた俺の前に、突然現れた娘。
様々な事情に振り回されながら、互いの心に触れるうち、気がつけば誰よりも傍にいることを望むようになっていた。
都人がこぞって欲する機織りの腕前で、この世にふたつとない見事な布地を織りあげていく。その楽しげな姿を眺めることが、あのころはなによりも幸せだった。
その突出した機織りの才能は、いつしか人々の噂に登って天帝の耳に届き、誉れある織り姫――織女として天帝に仕える役目を与えられた。その任期を終えるまでは、こうして離れて暮らさなくてはならないけれど、新しく織りあげた布を携え、年に一度、川を渡ってこの郷に戻ってくるこの時だけは、誰にかばかることなく、堂々と迎えに行ける。
「――ん? 少し、背が伸びたんじゃないか?」
「へへ。でしょ? このあいだもね、衣の裾を直したの」
得意そうな笑い声と懐かしい感触に埋もれるように、彼は瞳を閉じたまま、陽光を吸い込む暖かな背を抱きしめた。
更新日:2011-04-25 20:37:25