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マダム麻子とジゴロ

 あまりに幸せすぎて、つい頬がゆるんだ。タクシーの運転手はバックミラー越しに私の顔を見ると、明らかに不機嫌な声を出した。

「お客さん、事故か何かあったのかもしれませんよ。これじゃあ、降りてもらって歩いたほうが……」

 さきほどまでスムーズに流れていた車が、大通りの交差点を通過したとたん、トロトロと渋滞し始めたのだ。
 しかし外は真夏の炎天下である。クーラーの効いた車内を出て、あのかげろうの漂うアスファルトの上を歩くような勇気は私にはなかった。

「事故……かまいません。急がないし、このまま行ってください」
 運転手は返事の代わりに、小さくため息をついた。

 車が渋滞していようが、ホテルへの到着が遅れようが、そんなことはどうでもいい。ただ、これから会う男のことを思い描くだけで、私はこれ以上ない幸せな気分になれた。ただもう少し長く、この空間で、極上の喜びに浸っていたかっただけである。

 男と知り合ったのは一年前のことである。
 夫のバースデーのプレゼントを買うために、メンズショップでネクタイを選んでいたときのことだ。そこに、とびきり背が高く、碧い瞳を持った男が入ってきた。男はぐるっと店内を見回すと、私の立つネクタイのショーケースのそばにやってきた。
 目が合った。私を一瞥すると、彼の酷薄そうなくちびるがグイッと三日月を描いた。それだけだ。たったそれだけで、私の心臓は彼に鷲づかみされ、内臓すべてをえぐられてしまったのだ。

更新日:2009-08-31 10:02:10

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